詩人 響月光のブログ

詩人響月光の詩と小説を紹介します。

エッセー「寝そべり族は超人か?」& ショートショート「雪男」

エッセー
寝そべり族は超人か⁉


 日本人ならほとんどの人が、「富国強兵」という言葉を知っている。この言葉は、明治政府が生み出したスローガンで、日本が欧米先進国に追い付くため、国を豊かにし、強い軍隊を作ることを念じて掲げたものだ。しかし最近の物騒な世界情勢を見ると、このスローガンは日本だろうが先進国や発展途上国だろうが、すべての国の国是になっていることを実感し、いまも昔も世界は変わっていないものだとつくづく思い、苦笑している。何となれば、多くの国の人々が自分を貧乏人だと思っていて、多くの国の人々が隣国から攻められ、奴隷にされるのではないかと恐れているからだ。


 そうすると、世の有り体は弁証法的に進化・発展しているわけでもなく、来世や前世が仮にあったとしても、そこに君臨する神様は、果たして理想の世界を創っているのだろうかと疑ってしまう。ニーチェは「千の目標が今までに存在した。千の民族があったからだ。ただ千の頸を一体とする軛が今もなお欠けている」と言った。同時に彼は「神は死んだ」と叫んだが、それは彼の理想とする「超人」が増えることを願ってのことで、実際には、無神論者が増えても神々は未だに健在だし、ニーチェが夢想した超人たちはどこに隠れているか分からず、富を追求する功利的な「超人」たちが世の中を牛耳っていることも昔と変わらない。ニーチェが生きていたら、世界は畜群だらけだと嘆いたことだろう。


 彼の言う「超人」は、現実を直視し、その不合理性を自身の努力で変えていく自力本願の人間たちで、各自が千の頸を一体化する軛となり得る自意識を持って世界を変えていく。神が生きていた時代は、信者たちは神託に従って意識を変えていった。しかし神の死んだ世界では、一人ひとりが神を頼ることなく、自己責任で意識を変えなければならない。それが「超人」だ。  ニーチェは「永劫回帰」という基本概念で、神も天国も無く、この世界はすべての存在がまったく同じにように永遠に繰り返すと主張した。人間の意識以外は、人間を取り巻くあらゆる環境は無意味に繰り返し、その流れに乗って無意味な人生を繰り返すのが「畜群」で、その流れに棹差して、自らの確立した意志でもって行動するのが「超人」であると説いた。


 人間はアリ塚を造るシロアリのように、帰属本能の強い生物だ。世界中にいろんなタイプの組織を作って、その塀の中で安住しようとする。組織はピラミッド型のアリ塚と例えてもいいだろう。神が死ななかったのは、神もまた、この人的システムの中に組み込まれているからだ。千の民族がいれば千の神様がいて、千の国、千の支配者がおり、千の思想集団、千の会社、千の家族がいる。そしてそれらは千の個的目標を持っている。そしてその中に、異なる多様な意識・常識が存在する。


 この大小様々なアリ塚は千の万倍に膨れ上がり、その一つ一つに必ず女王(トップ)が君臨して、目標の実現に向けて統率・命令している。そして下部のアリたちは、その命令に従って労働し、集団が存続し続けるためにアリ塚の崩壊を防いでいる。そしてこの千の万倍のアリ塚は、自分たちを守るために、周りのアリ塚たちと競り合っている。その競り合いにも、一定のルールの中でのスポーツ的競り合いもあれば、勝手に隣のアリ塚を壊すような暴力的競り合いもある。


 この状況を軽く「競争社会」と言えば、競争の無い天国すら否定した「永劫回帰」の世界は、どっぷりニヒリズムに浸された世界だと言うこともできるだろう。確かに、この世界に過去のキリスト教のような統一的な神はいない。それは基本的に、絶対価値を失った殺伐とした灰色の世界だ。この世界では、一握りの人々が黄金を手に輝き、自らを神格化して輝き、その他の人々はワンオブゼムとして墨色にくすんでいる。墨色の人々は、豊かで幸せな人生を求めるだけの大衆で、ニーチェは彼らを「畜群」と軽蔑した。


 しかし彼らの基本的常態は「不幸」で、生きる意義や価値、目的を見失ってアリ塚の中を幽霊のようにうろついている。多くの人間は、神から見放されているのだ。そしてその鬱屈した心はルサンチマン(成功者に対する怨恨)で満たされている。女王アリは、このルサンチマンがアリ塚内で溜まり続けると、坑内爆発することを知っていて、時たまガス抜きのために隣のアリ塚に攻撃を仕掛ける。このとき、ルサンチマンを溜めていた兵隊アリの心が勢い良く解放されて暴れまくり、隣の巣の住人をことごとく食いつくし、祖国を守ったと胸を張って凱旋する。そして女王からまがい物のゴールドメダルを貰って悦に入る。しかし一階級特進したところで、墨色の脱色は叶わず、再びルサンチマンを溜め始める。永劫回帰の中で、古来より同じ光景が何百万回も繰り返されてきた。


 宗教社会では天があると決められ、天に召されるために人々は精を出す。マックス・ヴェーバーによれば、それが資本主義社会を発展させたという。それでは天を否定した永劫回帰の世界では、人々は何を目指して精を出さねばならないのだろう。ニーチェはそこで、自らが「畜群」と揶揄した一般市民に、「超人になるよう努力せよ」と神のごとく命令する。しかし残念ながら、超人に変身した人は宇宙人を探すようなもので見当たらず、永劫回帰のコンベヤーは今日日に至るまで、古代の軌道から外れたことはない。きっと多くの人々が、変身術を身に着ける前に脱落していったに違いないし、そもそも変身しようとは思わなかったに違いない。ニーチェはハウツー本を書かなかったし、仮に書いたとしても難解だったろう。


 ニーチェは、ニヒリズムに対応して生きていく態度には3種類あるとした。〇受動的ニヒリズム(梅):絶望して諦め、やる気をなくして周囲の状況に身を任せ、流されるように生きていくこと。(ケセラセラ:成り行きに任せるのが楽だ)〇無関心的ニヒリズム(竹):絶望から逃れるため、冷笑的に世の中を見つめ、自分では何も考えずに、他者からの働きかけも無視して、悟ったような賢ぶった態度で孤独に生きる(非行動:僕的ジジイの態度)。〇能動的ニヒリズム(松):現実のすべてが無価値・偽りであることを是認し、それを前向きに捉えて、自ら積極的に既成概念を乗り越え、新しい価値を生み出していく(積極行動:虚無から有を生み出すトレジャーハンター)。


 ニーチェは、(松)をチョイスして自らを創造的に展開していくことが、鷹の勇気と蛇の知恵を備えた「超人」への道だと説いた。ここで重要となるのは「鷹の勇気と蛇の知恵」という言葉だ。人間が人間である限り、人類が続く限り、永劫回帰は続いていく。そしてそれに付随するニヒリズムも続いていく。そして回転寿司のようなベルトコンベヤーの上には、幾多のアリ塚がフジツボのように密生し、内と外で喧嘩を繰り返している。革命も繰り返している。変革も繰り返している。議会も荒れている。それらは永遠に破壊と創造を繰り返している。


 これらのアリ塚は、生きる価値を形にしなければ不安になるアリたちが、虚無のコンベヤー上に尻から出た泥を固めた居城で、稼動するコンベヤーの振動で始終崩れていて、アリたちは修繕に忙しい。しかし彼らはそのコンベヤーの土台すら認識していない。超人はそれを鷹の目で認識して人類が虚無に浸されていることを承知し、そこから蛇の知恵で新たな価値を築き上げていく人間だ。この永劫回帰のベルトコンベヤーは、時代々々でサンゴヘビのような多彩な横縞が入っているが、それは社会の常識が国や民族で異なり、時代によっても変遷することを意味している。人身御供が常識の古代と、基本的人権が常識の現代、昔の王国、民主主義国、共産主義国、キリスト教国、イスラム教国では、そのカラーもおのずと変わってくる。


 しかし、いつの時代でも変わらないものが数本、シマヘビのような縦縞で続いていく。それは刻印され、消えることない人類の本能的な性(さが)だ。例えばニーチェの好きなルサンチマンだったり、支配欲だったり、金銭欲だったり、畜群的感性だったり、ニヒリズムだったりするだろう。超人は綱渡りのように、(松)のニヒリズムの上に立ち、鷹の勇気と蛇の知恵で足を踏外すことなく、普遍的な時の流れの中から、その場その場で新しい価値を釣り上げようとする。コンベアの川の底にはきっかけとなる獲物たちが潜んでいて、超人は太公望のように眼光を注ぐ。


 何が破壊か、何が創造かということは問題ではない。重要なのは、新しい価値は破壊だけでは生まれず、創造によって生まれるということなのだ。しかし、魚たちにも毒を持った奴がいるように、創造にも目利きが必要で、それが太公望の蛇の知恵ということになる。価値を生み出すのが創造だとすれば、受動的ニヒリズムも無関心的ニヒリズムも価値を生み出すことはなく、「能動的ニヒリズム」のみが、新しい価値を生み出すことになる。だからニーチェは、多くの人々が「超人」になることを願った。でなければ、物理現象としての永劫回帰のコンベヤーから、いずれ人類は降り落とされることになると思ったからだ。人間がいなくなったとしても地球コンベヤーが止まることはないが、人類にとってそれは切れたも同然だ。核兵器やAIが進化し過ぎてしまった現代、人間が畜群に留まることは滅亡を意味している。


 「超人」は常に理性を深めようと努力する人間で、それは宗教を抜きにした「人間革命」と言うこともできる。多くの人々の理性が深まると、千の頸が「理性」という軛の下に纏まり、反対に千の神、千の民族、千の国はおのずと消えていく。そして、世界は一つに纏まって人々は「世界市民」となり、真っさらなベルトコンベヤーに乗り移れるだろう。これは人類の永続に不可欠な大規模メンテナンス工事だ。従来のコンベヤーはいつ切れるか分からない状態になっていて、仮に部分断裂で済んだとしても、あまたの人々がこの世から消え去るに違いない。


 ならば、いま中国で流行っている「寝そべり族」は、松竹梅のどのニヒリズムだろう。最初に寝そべった駱華忠がディオゲネスを標榜したのだから、きっとそれは、ディオゲネス的虚無感に落ちた無力の(竹)的人間が、SNSを通じて多くの若者たちに向けて『怠惰への賞賛』をアピールした「松」的ニヒリズムに違いない。もちろん、樽の中に住んだディオゲネス自身、「世界市民(コスモポリタニズム)」を最初に標榜して後世の歴史に残っているし、同じように自称するアリ塚の中の我々は、樽の中のディオゲネスほどには、いまでも世界市民になり切れていない。世界市民は、世界中の人々が手を繋ぎ、家族のように富を分かち合う市民なのだ。


 現代は、資本主義国はもちろん、人民平等を謳う共産主義国、宗教国家でさえ、ピラミッド型のフジツボ構造をしている。なぜなら、永劫回帰のコンベヤーには「支配欲」や「金銭欲」の縦縞が人類の性(さが)として刻み込まれているからだ。いまも昔も、権力や富を追求する功利的な「超人」たちが世の中をうろつき、牛耳っている。ニーチェ風に言えば、「権力(富)への意志」だ。その功利性を自ら捨てたからこそ、ディオゲネスは胸を張って世界市民を名乗れたのだ。


 都市市民と地方農民の格差は広がり、職のない若者が増える一方で、職を得た労働者は苛酷な長時間労働を強いられる。ラッセルは一体誰のために働くのかと問うた。生きるため、家族のため、そして富と権力を志向する上部組織の人々のためだ。「寝そべり族」は、家族と上部組織に背を向け、生きるためだけに生きることをチョイスした。そして、他の若者にもその生き方を示そうとした。何のために? 新しい価値を創りたいと思ったからだ。そんな生き方しかできない社会を変えたいと願ったからだ。彼らは、鷹の勇気と蛇の知恵を持って寝そべったに違いない。それはガンジーの「無抵抗主義」にも通じるところがある。


 共産主義のソ連時代、怠惰な人間には「寄生罪」が適用され、ノーベル賞詩人のヨシフ・ブロツキーは流刑となった。いまのベラルーシでは、「社会寄生虫駆除法」が制定され、無職で税金を払わない者に罰金が課される。労働人口が減りつつある昨今、「寝そべり族」が巷に氾濫すると、中国にもそんな法律ができるかも知れない。アリ塚の内部構造が崩壊する悪夢を恐れるあまり……。しかし寄生虫は意外としぶとく、雑草のように広がっていくかもしれない。


(僕が不審死の場合はノビチョクを疑って下さい)





ショートショート
雪男


(一)


 多くの国が参加する月面開発共同研究事業から資金を受けている研究の一つに、「生物不凍化研究」というものがあった。一見難しそうな研究に見えるが、根底の理論は単純なもので、健康に害を及ぼさない安全な不凍液を血管に入れ、寒い夜の月面でも軽い宇宙服で活動できるようにするものだ。最近その不凍液を開発したというニュースが世界を駆け巡った。宇宙飛行士はこれをひと月に一回注射することで、極薄の宇宙服で―200℃近い月面を自在に動き回れるようになる。月面での臨床試験も数年後に始まることになり、準備を進めていたところ、思わぬところから地上臨床試験の話が来た。「月面でやる前に、まずは似た環境の南極でやってみたら」とスポンサーから研究所長に連絡が来た。 


 それはこの事業に多額の資金を投入している某権威主義国からの依頼で、断ることができなかった。研究所長はさっそくその国に飛んで、科学技術省の応接間に案内された。小一時間ばかり待たされると、科学技術大臣と、三人の刑務官に付き添われた囚人が入ってきた。彼の痩せた毛深い手には手錠が嵌められている。大臣はソファーから立ち上がった所長と握手をし、「まずは成功おめでとう」と言って、所長に座るよう促した。しかし囚人と三人の刑務官は立ったままだった。


「こいつは誰だか分かるかね?」と大臣は切り出した。 男の眉毛は繋がり、髭はぼうぼうだった。所長が返答に窮していると、「北部に居座る山岳少数民族の族長さ」と続けた。「しかもテロリストだ。裁判で死刑が言い渡されている。山で暮らす約千人ほどの民族さ。我が国の国教とは異なる、野蛮な宗教を信じておる」「お前らの宗教のが野蛮さ。それに、おらが民族はお前らに殺されて千人に減っちまったのさ」「そんなことはどうでもいい。お前の決意をここの所長さんに話すんだ」 大臣は族長をにらみ付けた。


 族長はフンと鼻を鳴らし、「要するに、こいつら侵略者は俺たちの土地を欲しがっている。俺たちの山には、豊富なレアメタルが埋もれているんだ。このままだと、いずれ俺たちは皆殺しさ」と吐き捨てるように言った。「余計なことは言うな!」 大臣は所長に顔を近づけてニッコリ微笑み、耳打ちするように「千人の治験者が、君の研究に協力したいと願っているんだ」と囁いた。「……と言いますと?」「こいつらは南極に移住したがっているのさ。自ら進んでだ。山岳民族だから、寒さには自信があるが、南極は寒すぎる。で、君の大規模な治験に参加したいとさ。我々の差し金ではない。族長様の決めたことだ」「南極で治験ですか?」 所長は驚いて大臣に尋ねた。「そうだ。治験者は多い方がいい。こいつらは全員テロリストだ。どうやら戦いに疲れたらしい」 大臣は薄笑いし、バカにした目付きで族長を眺めた。


「疲れちゃいないさ。しかし先はない。多勢に無勢だ。国連も役に立たない。全員殺されるか、追い出されるかさ。で、敵の大臣様からお誘いを受けた。お互いウィンウィンの旨い話だという。南極は誰の土地でもないし、追い出されることもないってさ。人間アザラシになれってよ。しかし、二人の意見は一致した。絶滅よりかはマシってことだ」と族長。 大臣は声を立てて笑った。族長も張り合って空笑いした。「我々は固い握手をした。こいつは君の技術に、民族の運命を賭けることにしたのさ。ただ、こいつは心配している。研究費に大金を注いだ我々も心配している。さあ、自信のほどを述べて、我々を安心させてくれたまえ」


 所長は多少戸惑いながらも、「もちろん自信はあります」と胸を張って答えた。「この不凍液は、人間に効くだけではありません。家畜にも穀物にも有効です。雪や氷に沁み込ませれば、麦も米も果物もそれを吸って立派に育ち、実を付けます。あなた方は広大な南極を緑化し、我が物顔で収穫物を輸出することが可能です」 族長は思わず手錠の両手を叩いて喜んだ。しかし急に不安そうな顔になって、「しかし、不凍液は定期的に注射しなけりゃいかんだろ?」と聞いた。「ご安心ください。薬剤の原料は現地調達が可能です。南極海の雑魚から採取した不凍タンパク質とポリニアと呼ばれる藻やある種の植物プランクトンなどから採取した秘密の成分を、秘密の割合で生理食塩水に投入したものです。現地に千人用のパイロットプラントを造れば半年で完成して、すぐにでも治験可能です。最初は国連の援助で食糧を調達し、一、二年後に農業用不凍液プラントができれば、自給自足も可能となります。もちろん、五年後には収獲物を輸出できるようになります」


 族長はもう一度手を叩いて喜んだ。安心した顔つきになって、「あんたは正直そうな男だ」と言って所長にウィンクし、大臣には了承の目配せをした。そして手錠を外され、テーブルに置かれた誓約書にサインした。


 「さあ、飛んでいけ。アジトに帰って、仲間たちを説得しろ。説得に失敗したら、俺はヒトラーとなる覚悟がある」 族長はフンと鼻を鳴らして虚弱な胸を膨らませ、虚勢を張って出ていった。そして正直な所長も「頼むな」と大臣から励まされ、足取りも軽く出ていった。ヒューマニストの彼は、成功すれば多くの不幸な人々を救うことができると確信し、族長以上に薄っぺらな胸を過呼吸で膨らませた。


(二)


 族長の要望で、まずは南極にパイロットプラントを造ることになった。資金は依頼国から支給されることも決まった。半年後には各国基地から離れたタカへ山の麓にプラントは完成し、その周辺にブリザードに耐える難民収容施設ができた。民族全員が4隻の船に分乗して、移住することになる。所長は依頼国の港で全員に不凍液を注射し、自らも打った。全員が半袖の夏服で乗船し、迫害され続けた母国を離れて極寒の新天地に向かった。


 極夜明けの南極には、地平線上に太陽が見えていた。氷上に下船した千人は急峻な山々を眺めて歓喜の声を上げ、大型の雪上車に引かれた橇に分乗し、ピストン輸送で施設まで運ばれた。氷塊は夏のカキ氷のように彼らの肌に心地よかった。所長は改めて、不凍液の有効性を確信した。彼はこの不凍液が宇宙や南極以外にも、様々な用途に使用される可能性を考えた。そして、原料の豊富に採れるこの地が、一大生産地になることも予測した。来年度中に治験は終わり、不凍液の安全性が立証されれば、再来年からは大型プラントが建設されることになる。千人の難民もこのプラントで働き、賃金を得ることができるようになる。世界各地の難民たちが不凍液のお陰で、この広大な氷の大陸で自分の土地を持ち、思う存分に作物を育てることができるようになる。そしてこの場所には、難民を救った所長の銅像が、きっとジョージ・ワシントンのように立つことになるだろう。


 所長の帰国後、施設長と族長は、施設の横の氷上に網を敷いて不凍液を垂らし、種々の穀物と野菜の種を撒き、防風林の苗木を植えた。すると野菜は数日後に芽が出て、みるみる育っていった。氷の上に畑ができることを知った人々は、手を繋いで民族の踊りを始めた。大型プラントが出来れば、恐竜が闊歩していた時代の、緑に覆われた南極が再現されることになる。人々は施設の近くに祭壇を造り、大切に保管していたご神体を出して飾り、その周りで踊りまくった。それは紀元前に生きていた先祖のミイラだった。ミイラは痩せていたが全身に黒い毛が生えていた。彼らは、欧米人が時たま遭遇したと騒ぐ幻の雪男を祖先だと信じていた。現に彼らの神話ではそう謳われ、彼らもしばしばその幻影を見て拝んでいた。彼らは、自分たちが雪と氷の国に暮らせることを喜び、雪男の御導きだと信じた。


 人体に対する悪い副作用が確認されないまま、二年間の地上治験も終わりに近付いてきた。それが終われば、今度は宇宙飛行士の治験が開始される。所長は新たな治験の準備に忙しい中、数日前から自分の身体の変化が気になってきた。そしてそれが不凍液の副作用でないことを祈った。体毛が徐々に濃くなり、薄かった眉が毛深くなり、ひと月もすると左右が繋がってしまった。つるつるだった胸に胸毛が生えてきて、それが腋毛と繋がってきた。裸になって鏡の前に立つと、足も手も、全身の体毛が野獣のように濃くなっている。やはり、これは不凍液の副作用かも知れないと考えた所長は、慌てて飛行機でチリに飛び、そこから小型飛行機で難民収容施設に向かった。


 搭乗した小型飛行機のパイロットが所長を見て笑った。「その毛むくじゃらは新手の防寒服かい? それとも時期外れのカーニバルかい?」「スターウォーズのウーキーさ」と所長はつまらない冗談で返した。 飛行機から降りたとき、所長はすっかり雪男になっていた。黒山のような雪男たちが飛行機を取り囲んだ。パイロットはもうすっかり、これが何かのお祭りか新手の防寒服だと思い込んでいた。所長は殺されるのではないかと降りるのをためらった。しかし全員が、所長に向かって拍手をし、歓声を上げた。


 所長がタラップを降りると、一人の雪男が駆け寄ってきて抱き付き、毛むくじゃらの頬にキスをした。「先生の助手の施設長ですよ。みんなみんな幸せに酔いしれているんです」「先生、俺たちは地上天国を創ったんだ」と雪男になった族長が叫んだ。「全員が祖先帰りを果たせたんです。全員が神の予言通り、かつての山岳帝国を取り戻し、神々の姿に戻って、新しい歴史を築くことになるんです」と誰かが叫んだ。「我々は人類を超えて、超人に変身したんだ!」と誰か。「新しい、最強の人類が始まるのさ!」 所長は雪男たちに担ぎ上げられて、ご神体を奉る祭壇に向かっていった。この祭壇の前で、感激した所長はずっとここに留まることを誓った。


 一カ月後、捜索隊がこの地に訪れ、突然現れたこんもりとした緑地帯に驚かされながら、恐る恐る足を踏み入れ、その中心部で雪に埋まった施設を発見した。施設の内外に多数の死骸が埋もれていた。それらは毛むくじゃらの怪物で、凍っても腐ってもおらず、死んだ振りをしているのかも知れなかった。隊員たちは怖がって、近寄ることをしなかった。死骸は、不思議な香ばしい臭いを発していた。捜索隊長は、「生存者ゼロ」と本部に報告し、「但し、新種生物の可能性あり」と付け加えた。 


(了)




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