詩人 響月光のブログ

詩人響月光の詩と小説を紹介します。

エッセー「熊戦争とパレスチナ戦争を考える」& ショートショート

エッセー
熊戦争とパレスチナ戦争を考える


 今年は異常気象で木の実の出来が悪いらしく、ふだんは人里に下りてこない熊たちが空腹のあまり人家の庭に現れ、人を襲うなどの悪さをしている。これから異常気象は続くし、それが当たり前になれば異常も通常となるだろうから、熊のお宅訪問も日常茶飯事になるに違いない。同じようにウクライナの領土にロシア軍が進軍して居座れば、最初は世界が異常事態と見なしていたのが、そのまま時が経つうちに世界も目を瞑る日常風景になる。それが嫌だというのなら、熊もロシア兵も駆除する以外に方法はない。


 熊とロシア軍の違うところは、熊は腹が減って生きるか死ぬかの覚悟でうろつくのに対し、ロシア兵の多くは上からの命令でやむを得ずうろついていることだろう。止むに止まれぬ行動と、「なんでこんなことしてんだ……」と自問自答しながらの行動では、大分差がある。熊は生きるために危険を冒して人里に下り、ロシア兵は国家から疎外されないために危険を冒してウクライナに進撃する。貧乏ロシア兵は目の前に札束という人参をぶら下げられたといっても、飢え死にするまで追い詰められてはいない。ロシア国家から疎外されないためとすれば、国を愛する心や故郷の人々への愛着を捨て去る覚悟さえあれば、脱走してウクライナに投降することも可能だ。ロシアへの帰属意識さえ捨てれば、ロシア以外にどこか生きる場所はあるだろう。但しロシア軍には、脱走兵を背後から監視・射殺する督戦部隊が組み込まれている。


 しかし帰属意識には(ナショナル)アイデンティティという粘着感情が含まれていて、多くの人々は自分の生まれ育った場所が死ぬまで自分の立ち位置だと思い込んでいる。例えばアメリカ移民のように、アメリカ人のくせに祖先がどこの国かでドイツ系、アイルランド系、ウクライナ系、中国系などとこだわり続ける。最初は原住民を追い出してコロニーを作ったが、その村意識が続いていて、最初に移住したピルグリム・ファーザーズの末裔は未だに尊敬されている。原住民の子孫を除いたアメリカ人には母国が二つあるので、例えばロシアとウクライナ、イスラエルとパレスチナが戦争となれば、同じ会社のロシア系とウクライナ系、イスラエル系とパレスチナ系の同僚は複雑な気持ちになったりする。 


 帰属意識は、パスポートの国の数だけあると思えばいい。加えて宗教の帰属意識、民族の帰属意識、生まれた地方の帰属意識、贔屓のサッカーチーム、派閥などなど、この星は帰属意識が満載だ。大ロシア主義や中華思想はその最たるものだし、大和魂は敗戦でもろくも崩れ去ったが、浪速イズム阪神イズムは健在だ。なかでもロシアンアイデンティティは曲者で、プーチンを先頭に多くのロシア人(農奴の末裔を含め)が古のロシア帝国に帰属していてその栄華をイメージし、当時はロシアの領土だったウクライナの奪還を望んでいる。きっと彼らの心の中では、日本人が理不尽と考えるウクライナ戦争も、領土拡大戦争というよりは奪還戦争なのだ。つまり日本人とロシア人のイメージは異なり、相互不理解が生じている。


 ならば僕にも、例えば北海道の熊の気持ちが分からなくても、想像することぐらいは許されるだろう。学校の授業のように、僕はヒグマ役となって、ディベートを始めよう。僕にもロシア人のような主張はある。僕は北の大地を闊歩した昔の熊帝国時代を思い出し、人間に対して怒っている。当時は先住民であるアイヌの人たちだけが広大な土地に暮らしていて、僕の祖先は「山親爺」などと尊敬されて一応共存し、人里に下りてもむやみに殺されることはなかった。ところが特に明治以降、和人や屯田兵が多数入植し、先住民を追いやって開墾・開拓を進めたことから僕たちの生活も一変する。僕たちは山に追いやられ、害獣扱いされてやみくもに殺され熊汁となり、頭数も激減した。一定数保護されるようになったのは、動物愛護の思想が盛んになった戦後のことだ。


 こうして見ると、いま起こっているパレスチナ戦争(第一次中東戦争ではない)も、北海道の熊戦争と似たようなものだと理解することができる(熊のためおかしな比較はご容赦)。異なるところは、パレスチナ人は人間で、人間には人権があり、僕は動物で、動物には人権がなく、物品扱いされることだ。しかし起こっている事象を言葉にすれば、「民族と民族の縄張り争い」、「人と動物の縄張り争い」ということになる。別の切り口で言えば、起こっている事象は、争いの渦中で人も動物も簡単に死ぬということ。敵視されれば人も熊も物扱いされること。結局強いものが勝つという弱肉強食の世界であること。この世界では人は僕たちをナイフで裂いて食い、僕たちは人を爪で裂いて食うということ。人間は単なる感情で共食いはしないが、僕らと同じように腹が減れば食うかもしれないということ(僕たちには仕来りはないが、人間どもには暗黙の仕来りがあるだけのことさ)。


 法(ルール)は罰を伴う決まり事というイメージで、北の大地もパレスチナの大地も、法がなければ戦場となる。僕に「ここは人間の庭だ」と片側のルールを叫んでも無視し、敵兵に「ここは俺の家だ」と片側のルールを叫んでも、主人もろとも爆破される。自然のルールで行動する僕は人間のルールを知らないし、敵国のルールで行動する敵兵は相手国のルールなど無視する。ルールは権力で支えられていて、権力のないルールは絵に描いた餅、あるいは錨のない船だ。だから錨のない国連がルールを定めていても常時フラフラ揺れていて、いくら人道的ルール違反だと叫ぼうと、駅舎内の殴り合いに割って入る駅員ぐらいの効力しか発揮しない。仕方なく駅員はお巡りさんを呼ぶと、ケンカはすんなり解決する。それは警官は背後に国家権力の後光があるからだ。しかし後光の光源だったアメリカも国内事情に忙殺され、エネルギーを失って萎れつつある。いまの国連は、アメリカを始め自国の国益を真っ先に考える有象無象の集合体でしか過ぎず、駅員と似たり寄ったりのあたふたした「仲裁」しかできない(偶に時の鐘のように、事務総長が恨み節を発している)。


 僕たちが殺されるときは「駆除」という言葉が使われる。その意味は「害になるものを殺して取り除くこと」だ。しかし、この言葉は「殺す」という言葉と同じ意味に使われてしかるべきだろう。殺人はどんな理由にしろ、「自分の害になるものを殺して取り除くこと」なのだから。人が僕を殺したら「駆除」と言う。同じように、僕が人を殺した場合、僕からすれば「自分の害になるものを殺して取り除くこと」なのだから、僕サイドは人を駆除したことになる。しかし人の立場からは、「誰々さんが熊に駆除された」とは言わず、「殺された」と語られる。未だ人は熊どうしの会話をアニメ以外は確認していないが、この前僕は生活圏を取り戻す熊たちの会議に出席して、話は「俺は人間を何頭駆除した」といった自慢話になって盛り上がりました(これ以上続けるとSNSの吊し上げになりますので、熊の一方的ディベートは終了です。イスラエル人がハマスの主張を代弁したら村八分でしょ)。 


 ならばイスラエル兵とハマス戦闘員はどうだろう。ロシア兵とウクライナ兵はどうだろう。少なくとも両者は人間で、互いに「人権」を持っている。しかしいざ戦いが始まると、ロシア兵はウクライナ兵を「熊ないしは物」だと思い、ウクライナ兵はロシア兵を「熊ないしは物」だと思って殺し合う。いくら周りが「人権」「人権」と叫んでも、「人権」は両者の脳の中枢に組み込まれたデバイスではなく、夢と変わらない単なる「想念(教養)」というイメージ・パルス(神経発火現象)に過ぎないのだ。ロシア兵がウクライナ兵を殺した場合、相手は熊なのだから、ロシアの人々は「自分たちの害になるものを殺して取り除いた」と思い、それには「駆除」という言葉は当てはまる。反対にウクライナ兵がロシア兵を殺した場合、ウクライナの人々は「駆除」だと思って喜ぶ。しかし殺されたロシア兵の国の人々は「殺された!」と言って泣き叫ぶ。イスラエル兵がハマス戦闘員を殺した場合も、ハマスがイスラエル兵を殺した場合も同じことだ。 


 それなら、巻き添えになる民間人や人質の死は何と呼べば良いのだろう。それは「事故」だろうか……。それは事故のようなものではあるが事故ではない。敵という自分の害になるものを殺して取り除く作業に「必要悪」として付随する犠牲だ。事故は思ってもいないことが起きたときに使う言葉だが、犠牲は神に捧げる人身御供のように、あらかじめ想定された殺人だ。国際法では「戦闘員」と「非戦闘員」は区別されていて、明確な意図で非戦闘員が拉致されたり殺されれば違法となるが、ウクライナ戦争を見れば分かるように、一端戦争が始まってしまえば、違法もクソもなくなってしまうのが現状だ。


 「犠牲」という言葉は基本的に傍観する第三者が使うか、当事国の政府が自国民(兵士も含め)に使う。だからイスラエル政府がパレスチナの民間人を殺しても表面上は押し黙り、心の中ではハマスと同じカテゴリーに入れている。プレスに聞かれると、「民間人の中にハマスが紛れ込んでおり、選別は難しい」と答えるだろう。婦女子を含めパレスチナ人はみんな敵だと叫べば国際社会から非難されるから、口を濁すにこしたことはない。それはハマスも同じだろう。獲得した人質だって戦利品以外の何物でもない。敵から取った持ち駒だ。


 「犠牲」とは、「一層重要な目的のために、〝自分〟の生命や〝大切なもの〟を捧げること」という意味である。自己犠牲は「自分の意志で自分の生命を捧げること」で、これは自己完結型の兵隊が持つ犠牲だ。兵隊は自国の「大切なもの」を守るために死んでいく。その「大切なもの」は何かというと、これが自国の「民間人」や「人質」で、相手国のそれは含まれない。しかし、それ以上に大切なものがある。「国破れて山河在り」という杜甫の悲しい詩があるが、それは国民や民族が未だに囚われているナショナルアイデンティティやエスニックアイデンティティなのだ。これが侵されそうになった場合、元来自己犠牲でないはずの民間人や人質の死は、自己犠牲となる。戦時中の女子挺身隊や竹槍部隊を思い出せば分かるだろう。それは大統領や首相が考える一層重要な目的のために、彼らが決断した人身御供で、有事における国民の義務として運命に弄ばれる存在なのだ。エスニックアイデンティティとは何か。あれだけ犠牲を出しながら、未だ抵抗を止めないウクライナの人々に聞けば分かるはずだ。


 ならば、いま起こっているパレスチナ戦争で、「人質」と「民間人」とではどう異なるのだろう。イスラエル軍の立場で言えば、「人質優先」を無視した侵攻作戦を続ける限り、イスラエル人人質はハマス撲滅という一層重要な目的のための犠牲者となる。現在4日間の戦闘停止と人質解放が始まったが、人質全員が解放されるわけではない。イスラエルが残りの人質を断念して戦闘を再開すれば、そこにあるのは、きっと個と個との間の壁だ。人質家族VS強硬派ということになる。イスラエル政府は、国内デモや国際的批判を気にして戦闘停止に踏み切るが、基本的にイスラエル人はイスラエル国家のアイデンティティで結束していることも確かだ。このアイデンティティには「犠牲」的精神も含まれるだろう。それは徴兵制度がある国では普通のことで、彼らが一応兵隊なのなら「一層重要な目的のために、自分の生命や大切なものを捧げること」という犠牲的精神に反する行為は、脱走兵と同じ卑怯なことになってしまう。


 女性や子供が少なからず解放されても、居残りの人質たちは兵隊としてお国のために死んでいくことになる。それが国家アイデンティティが持つ厳しい現実だ。その前には、「人権」という絵に描いた餅は塗り潰される。自分と親しい者でないかぎり、人は他人の死に無関心な立場を取ることは容易だ。基本的に人間は「他人のことはどうでもいい」というスタンスで生きている。ことに余裕がなくなった場合は、その感性は補強される。そんな人間が政治を行えば、自分の夢や一層重要な目的のためには「多少の犠牲はやむを得ず」となるだろう。同国人ですらそうなら、元々差別感情のある敵対民族の民間人は敵兵と同じレベルで考えてもおかしくはない。米軍が広島に原爆を落としたようなものだ。鳥インフルが流行ると、近くの鶏舎の健康な鶏も一緒くたに生き埋めにされる。鶏君たちは、疫病を全国に広めないという一層重要な目的のための犠牲者だが、重要性においてプーチン的妄想のウクライナ侵略よりは理に叶っている。「人質」や「民間人」も、戦時下においては同じ立場に陥ると思っていいだろう。


 居残り人質はイスラエル軍にとっては足枷となり、「無視」するに限ると思ってもおかしくない。カオス的な破壊行動を行いつつ、それによる人質の犠牲を無視するということは、結果的に「自分の進撃の害(邪魔)になるものを殺して取り除くこと」と同じになり、人質は有害動物と同じ扱いとなり、このまま進撃を続ければ「駆除」となってトートロジーに陥ってしまう。結局「快楽殺人」を除いて、殺人も捕虜も人質も、全て「駆除」というワードとの不整合は見当たらない。高邁な理由だろうが個人的な理由だろうが、殺人も見殺しも、結局は自分の害になるものを排除し、目を瞑って「より上位の目的のために」自分たちを保身するもので、それには「駆除」という言葉が相応しい。そのとき人質家族との同国人という紐帯は無くなり、人々は自分たちのことだけを考える。自分が守らなければならないものは、自分を包容する国だ。人質は国の養鶏産業を守るために処分される鶏たちと同じ立場となり、「運が悪かった」と慰める以外に言葉はない。 


 パレスチナ戦争はイスラエル人VSパレスチナ人という民族アイデンティティの戦いだ。同時にユダヤ教VSイスラム教という宗教アイデンティティの戦いでもあり、一つの領土をめぐるナショナルアイデンティティの戦いでもある。遠い昔、原始細菌が生まれて菌叢(群体)を作ったときから、あらゆる生物がコロニーを繁殖のよすがとし、それを礎にして栄えてきた。虎や熊のような孤独な連中も、それぞれに縄張りを決めて、必死に守ろうとする。それは個々の個体が生きるために不可欠な「より一層重要な目的」としての空間で、拡大は繁栄を意味し、縮小は衰退を意味し、喪失は死を意味した。生物の端くれである人間も同じ目的のために活動し、それがアイデンティティという感性と深く結びついている。イスラエル人はかつてその空間を喪失し、死の淵を彷徨った。そしてパレスチナ人はいま、まさにその空間を喪失し、死の淵を彷徨っている。もちろん、戦争に巻き込まれた人質も、両者の「より一層重要な目的」の犠牲者だ。


 人はそんなとき、神に祈る以外に方法はない。イスラエル人もパレスチナ人もそれぞれの神に向かって祈るだけだろう。法然は「人間はいくら努力しても変われず救われないから、南無阿弥陀仏をひたすら唱えなさい」とおっしゃった。阿弥陀仏は異界に居られるが、唱えれば言葉となって心に入り実質化するという。しかし互いに異なる神を祈ったところで、両者の紛争が解決するはずもない。願わくば、世界中の人間が「平和の神」に祈りを捧げて心を一つにし、その中で実質化させて解決の糸口が見つかればと思っている。4日間の休戦だって、アメリカをはじめとする国際圧力によって実現したのだから。


 そしてもう一つ……。菌叢から発した生物アイデンティティを持たないスーパーコンピュータに、群叢のしがらみから解放された人間社会のプラットフォームを考えてもらい、平和のヒントを得たいものだ。神の世界のプラットフォームが天国だとすれば、無生物のコンピュータがどんな世界システムを提示してくれるかは、興味深いものがある。人の心のドロドロした不純物がないだけでも、すこしは天国に近い清涼さはあるものかと期待ができる。宗教団体が唱える地上天国よりかはマシかもしれない……。






ショートショート
ドローン戦略部隊


捕虜宇宙船は大きな卵ケースといったところ。人一人がやっと納まるぐらいの卵型した小さなカプセルが幅五つ、長さ五十個整然と並べられ、それが五段に積まれていた。全部が埋まれば一、二五十人入れる蛸部屋というわけだが、全て埋まっているわけではない。満員になった場合は、成績の悪い捕虜から宇宙に放出される。


空き部屋は卵と同じ白色に濁っていて、内部は見えなかった。半分近くは空いている。人のいる卵の殻は半透明で内部が見え、激しく変化する多彩な光を発している。捕虜は孵化寸前のヒヨコのような恰好でドローン操縦を楽しんでいた。


殻の中から見れば内壁一面に映像が映し出され、広大な空間を飛んでいるように見えるから、拘禁ノイローゼに罹ることもない。室内は空中浮遊なのでエコノミークラス症候群もない。腹が減ると口先のノズルから水やエサが自動的に出てくる。尿や便は機械が自動的に吸い出してくれる。彼らは幼い頃からゲーム漬けの毎日を送ってきた。教養はゲームで身に付ける。脳味噌がデータを蓄積するとすれば、それはゲームを楽しむためだ。脳は妄想を膨らまし、快感に寄与すればよい。妄想はゲームの中でどんどん膨らみ、暴走していく。しかしドローン空間の中ですべて解消できた。


「拉致されても前と同じ環境にいれば文句はいわない。人生は卵の中だ。五感をすべて満足させているから、宇宙での脱走なんて誰も思わない。彼らが唯一囚人であることを意識するのは下の階の重力トラックを走らされているときだけだ」と男の監視。


「筋肉だって薬や電流で鍛えられる時代に、なぜ?」「苛酷な現実への順化。こいつらに旧人類の脳味噌を入れるんだ。できるだけ自然の状態で戻さないと、地上での戦士にはなりえない。しかし戻すことはないだろう」


ランニングを終えた捕虜どもが、汗だくで戻ってきた。大人しく列を作ってシャワールームに入り、殺菌スチームで汗を流したあと、それぞれのセルに戻っていった。「ちょっとあなた」といって女の監視が一人を呼び止め、浴室前にあるロビーのシートに座らせる。


「冥途の土産になんでも質問してくださいな。人類が進化するなら、こいつらのほうが進化形のはずだわ。この人は彼でも彼女でもない。生殖器は取られて性欲もないわ。でも暴力的な快楽は大好きよ、ね? それに、彼らの脳神経網はデザインされたものだけど、ゲームの中で組み換えがどんどん起こっていくから、話ができるほどには正常化している。いまは、脳神経修正プログラムを入れたバトルを楽しんでいるし……、で、トム君は優等生だわね。きっと祖先帰りかしら、旧人類の感性を持っている」女の監視はそういって優しい眼差しを捕虜に向け、「お名前はトムでよかった?」とたずねた。


「はい、ここで付けられた名です。生年月日は忘れました。ここに収容されている限り、本名は不要です」ちゃんとした答えが返ってきたので、私は驚いた。


「で、あなたはふつうの捕虜とは違うわね」「違いませんよ。捕虜たちは夢の中で生きています。あなた方にいわせると、孤独を愛する人、人嫌いです」「哲学者、詩人?」と私。「単なるゲーム・オタクです。二四時間バトルで生きるようにデザインされた人間です」「捕虜にとって現実とは?」「地上の現実は地獄です。だから死んだら天国に行けると思っている。夢を見て生きている。でも、新人類の捕虜には宇宙が天国だ。一人が入れるだけの卵が天国です。あつかましい連中に出遭いたくなければ一生遭わずに生きていけます。すべて夢なら生きるか死ぬかといった問題も生じません、それに我々は地上の人たちを殺している。本物の天国には行けない」


「しかし、君を作り出した地上の貴族どもは、地上を自分たちだけの天国にしようともくろんでいる」「それで戦争が起きる。あなたたち旧人類は、蜘蛛の糸を伝って地獄から抜け出そうとする哀れな人たちです。天国に登った連中はハサミで糸を切るでしょう。必要なのは住み分けです。あなた方は地下に潜り、僕たちは卵の中にいればいい。そしてあなた方を殺す」


「我々を哀れな地底人にするつもりかよ。君たちは家畜人間じゃないか」私は声を荒らげて、トムを侮辱した。


「地下に隠れていても地上に顔を出せばカラスが狙う。みんな家畜のようなものです。社会という戦場で飼われている。そう、僕は現実に生きていない。ドローン空間では、地上の人間は皆殺しです」


「孤独な離れザルめ」と私が再びののしる。「卵に戻してください。あの中であなたの家族を八つ裂きにしましょう」とトム。私は苦わらいした。「いいわ、戻りなさい」監視はトムを見つめ、優しく微笑んだ。


刑場に引かれる前に、捕らえられたわが軍の若者たちが働く様子を見学した。彼らはカプセルの中で興奮しながら、生まれ育った街々を攻撃していた。ドローンは次々に建物を破壊していく。彼らの技術は神業だった。


「彼らはドローンと一体化して、鳥の群のようにビルの灯りを目がけ、体当たりするのです。彼らはカミカゼのように命がけで攻撃します。けれど彼らは死にません。アドレナリンを放出しているだけで、不死鳥なのです。ゲームの世界では遠く離れた悲劇もゲームの一部です。彼らにとって、祖国の人たちもアバターです。お母さんもお父さんも妹さんも、お友達もみんなアバターなのです。だって彼らはいま、ゲームの世界で生きているのですから……」


「よくここまで洗脳しましたね」「洗脳なんてとんでもない。生まれ持ったゲーム中毒なだけです。ずっとずっと、ゲームの中で生きているのです」私は深いため息を吐きながら祖国の未来を忘れるべく、足早に宇宙放出口へと向かった……


(了)


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