詩人 響月光のブログ

詩人響月光の詩と小説を紹介します。

エッセー 「メタバースの未来」 & 詩

エッセー
メタバースの未来
~悲しみの避難所~


 二重人格を描いた小説に、スティーヴンソンの『ジキル博士とハイド氏』という名作がある。医者で社会的地位のあるジキル博士には抑えがたいサディズムの欲望があり、忌むべきその欲望を切り離すことのできる薬を密かに開発した。この薬を飲むとたちまち別人格の怪物ハイドに変身し、殺人や傷害などの悪行を行って欲望を発散させることができるようになった。有名な小説なので全体の粗筋はカットするが、これはあくまで物語だ。疾病としての二重人格や多重人格は、「解離性同一性障害」という神経症の一種と言われていて、その原因は児童虐待などによる心的外傷が多く、一人の人間の中に全く別の人格が複数存在するようになるのだという。小説ではないから外貌までは変わらないが、男にも女にも子供にも変心し、表情や喋り口は変わる。当然のこと、各人格の性格は異なり、中には手の付けられない暴れん坊もいたりする。別の人格にあるうちは、正気な自分の性格や情報、状況や出来事、トラウマになった思い出など、いままで歩んできた人生をすっかり忘れることができるという。


 ジキル博士も、悩んでいた悪徳願望を別人格のハイドに押し付け、切り離すことができて、名士のプライドを保てた。しかし彼の場合は、世間的に評価されている現況に満足していて、それを壊したくないため、暗い欲望のはけ口をなんちゃって別人に背負わせたわけだ。しかし虐待被害など、過去のトラウマを抱える多重人格者の場合は、現実そのものが苛酷で、別人になって別の世界に生きたいという逃避願望から、この障害に陥る。同じ多重人格でも、その原因が「過激な欲望」と「逃避願望」に分かれるなら、その意味合いは大分違うことになる。人の心を袋と考えれば、「過激な欲望」は内圧によって膨らみ、押さえが効かなくなって破れ出るのに対し、「逃避願望」は外圧によって袋が潰され、持ちこたえることができずに破れて押し出される感じだろう。そして両者とも、はみ出た欲望や願望は新たな人格を形成し、別の世界で生きることになる。


 いずれにしても過剰な欲望や逃避願望を持つ人の心は、多元宇宙のようにいくつもの世界を持つことができ、それが社会を乱さない限りは疾病として扱われることもなく、「怪しい目つき」や「夢男君・夢子さん」で止まるだろう。誰でも激しい欲望や逃避願望は持ち得るし、多重人格者でなくても睡眠中の夢となったり、白日夢となったりする。これらは明らかに現実の世界とは違うもう一つの世界だが、脳内で回っている限りは世間様に迷惑をかけるわけでもなく、個人的な問題として自身で解決すれば良い話だ。しかしそれが症状として表れたり手に余る状況になると、医者や警察のお世話になったりする。


 病的でない限り、あるいは他人に迷惑をかけない限り、欲望や逃避願望は「自由願望」という美しい言葉に代えることができる。自由願望は、自分の思うままに生きたいと願う欲望だ。哲学者のアイザイア・バーリンによれば、自由は「積極的自由」と「消極的自由」に分けられるという。「積極的自由」とは、物事の価値の優劣を知り、より高い価値の実現のために自立的に行動すること、「消極的自由」とは、個人の行動・選択の自由が他人によって干渉されないこと、と規定される。これはつまり、民主主義社会における「自由」の意味付けだろう。しかし民主主義社会では、良かれと思ってやった「積極的自由」でも他者との軋轢を生み、「消極的自由」で引きこもれば、社会参加して税金を払えと手紙が届く。それを解決する手段は、医者の診断書やお白洲の場ということになる。自由には社会的規制が付き物で、それでも民主社会は独裁社会よりはマシということだ。


 ならば民主革命の一つであるフランス革命はどうだろう。ドラクロアの描いた『民衆を導く自由の女神』の女神は「積極的自由」の象徴だが、その後ろの民衆は「消極的自由」の象徴だ。リーダーは積極的自由を考え、それに引きずられる虐げられし人々は消極的自由を訴えている。しかし暴徒の一人が貴族の首を刎ねたとすれば、旧体制下では犯罪者だが、新体制下では「積極的自由」を行使した英雄になる。フランス革命がなぜ積極的自由なのかというと、「民主主義」という消極的自由の価値観を持つ人民が、「貴族主義」というお上の価値観を変えるべく行動し、より高い価値が実現した(と現在は思われている)からだ。最初は「消極的自由」を求めても、行動すれば「積極的自由」に転換する。唯一「消極的自由」が叶うのは、安定した民主社会における民主憲法の文言か、議場における多数決ということになる。ならば独裁政権下で民主憲法と議会が破壊されれば「消極的自由」は力を失い、「積極的自由」の象徴である自由の女神を期待する以外にないということになる。彼女は革命や政変の象徴でもあるが、血を見るのが好きだ。


 「言論の自由」や「職業選択の自由」が消極的自由なのは、民主主義社会では、生きる権利と同じく当然の権利(人権)として遍く存在しているからだ。バーリンが「消極的自由」を真の自由と考えたのは、「積極的自由」の価値に絶対的なものはなく、価値観は統治形態や階層、個人の考えによって変わるものだから。つまり「積極的自由」の基本は価値を掲げる欲望で、「消極的自由」の基本は人権という観念ということになる。これは観念である「全員平等」の人権が一般常識として大地に遍く広がっていても、欲望本能である軍靴で踏みにじられやすいものだということを表している。フランス革命では、フランス人民は市民の人権を獲得し、フランス貴族は少数者特権を失った。しかし自由の女神はすぐさま欲に侵され、ロベスピエールやナポレオンに変身した。「積極的自由」どうしの戦いは価値観どうしの戦いで、現在でも見られる価値を掲げた欲がらみの戦争に堕してしまう。


 福沢諭吉は英語の〝Liberty〟〝Freedom〟を和訳するとき、最初は「御免」という言葉を当てはめ、その後「自由」という仏教用語にしたのだという。当時は封建社会だったので仏教的「自由」にもそんな意味はなく、日本人は「自由」という概念も分かっていなかった。しかし僕は「御免」いう言葉は、「積極的自由」には当てはまると思っている。「切り捨て御免」という言葉がある。これは平民に対する武士階級の自由を表した言葉だ。いま起こっているエンクロージャー合戦(パレスチナ戦争)でも、ハマスの価値観に基づいた「積極的自由」に対抗し、イスラエルの価値観に基づいた「積極的自由」で「民間人の殺戮御免(天下御免)」という惨事が起こっている。全ての戦争は互いの価値観の違いから生じ、それが欲望という「積極的自由」どうしの戦いであるなら、「自由」という言葉はあまりにも美しいので、「御免」にしたほうがいいだろう。「御免」には、「僕には力があるのだから、思うとおりにさせてもらうよ」ということわり(エゴ)が含まれる。「自由」は基本的人権に付随した「消極的自由」に使うべきで、「積極的自由」に使うべきではないし、「正義」という胡散臭い言葉と組み合わせるべきでもない。「積極的自由」も「正義」も互いの立場で変わるのだから、恐らく「御免」が相応しい。


 平和が安定した社会の中では、「積極的自由」と「消極的自由」は正常に機能して、社会を発展させていく。人々は「消極的自由」で守られながら、「積極的自由」で経済活動を行い、より良い社会を築いていく。「欲望」は他者との軋轢がない限り、社会の発展には不可欠だし、「逃避願望」は仕事に疲れたときに、様々な息抜きを与えてくれる。逃避の権利は「消極的自由」の重要な要素でもあり、それは基本的人権の一部に組み込まれている。つまり「欲望」は「積極的自由」で、「逃避」は「消極的自由」だ。


 古代ギリシア時代から、観劇は日常生活から逃避する一つの手段だ。瞑想も座禅も、俗なる世界から逃避(脱俗)する一つの手段だった。エジソンが映画を発明して以来、逃避や離脱のツールは増え、テレビも音楽もチャットも、苛酷な現実を忘れさせてくれる「多重空間」という逃げ込みツールになった。様々な人の現実空間にいろんな多重空間というもう一つの世界が膨らみ、現実に生きる人々の逃げ込む異次元の世界がどんどん生まれてきている。明治時代に電話が始まり、声が届くなら荷物も届くだろうと電線に風呂敷をぶら下げた輩がいた。それは便利なツールだが、彼らにとって受話器から声が聞こえるのは異次元の世界だった。同じ情報機器である写真も映画もテレビもラジオも、最初は異次元の世界だったに違いない。そこに登場するスターたちは、みんなが憧れるアイドルで、そんな一握りの人たちになりたいと憧れるとすれば、ファンは異次元の世界である夢の空間で遊んでいることになる。それは多重人格者が体験する空間と同じで、度を越せば医者から「解離性同一性障害」と診断されてしまう。そしていま、人類は「仮想現実空間」という新たな多重人格空間を獲得した。もちろんそこは、「逃避」という消極的自由の逃げ込む場所で、現実ではないがゆえに、何をやっても許される空間なのだ。


 この空間の中で、多くの若者がバトルゲームに参加し、「積極的自由」を駆使してアバターたちを殺しているが、フロイトの言う「死の欲動」や「破壊願望」が人間の本能の一部である限りは、そうした過激な欲望は仮想現実空間で解消すべきものだろう。現実空間でそれをやったら、時の政府が推奨しない限りハイド氏になってしまう。一方で、メタバースなどは「逃避願望」の駆け込み寺的な役割を担うことが可能だ。例えば自殺願望は現実空間からの逃避願望で、現実社会における孤独感や疎外感、他者や社会との軋轢で生じるものだとすれば、死をもって天国に逃避する必要はなく、メタバースのような仮想現実空間は優れたもう一つの世界として、自殺防止に寄与できるだろう。一例として、福岡県が開設したメタバース『おいでよ、きもちかたりあう広場』は、悩みを抱える人を広く対象としたもので、同じような悩みを持つ人たちがアバターとして参加し、語り合いや親交を通して、参加者の自殺願望を解消する仕組みになっている。


 こうしたことが仮想現実空間で可能とすれば、世界中にはいろんな社会的事情で虐げられ、苦しんでいる人々を癒す(救いはしないが)ツールとして活用できると思う。例えば狭い柵と檻で拘禁ノイローゼに罹っている難民や人質に対して、政府や悪党はVRゴーグルを提供することで、ほんの少しは人道的配慮を示すことができるだろう。さらにヒジャブに隠すことのできる眼鏡風コンパクトゴーグルが開発されれば、過度の女性差別で苦しむムスリム女性の気晴らしとなる別の世界で、男と対等に語り合うことも可能になるだろう。当然、政府は禁止するから、隠れキリシタンならぬ隠れメタバースとなるのはやむを得ない。しかし人間、現実世界でにっちもさっちもいかない場合は、気休めでも逃避する場所は必要なのだ。


 このように仮想現実空間は、様々な役割を期待できるが、それはあくまで「消極的自由」という逃避の手段に過ぎない。ならば仮想現実空間は、諸刃の剣ということになるだろう。人権という消極的自由が政府や外国によって疎外された場合は、消極的自由のメタバースに遊んでいるわけにもいかなくなる。人々は積極的自由の象徴である「自由の女神」を目覚めさせなければならないのだ。革命やら抵抗やら改革やらがなく、仮想空間や夢の世界に逃避していれば、それは強権政府や侵略者の思う壺になってしまう。社会においては、これからますます仮想現実空間は進化・発展していくことだろう。しかし同時進行的に階層社会や社会的統制も加速している。


 虐げられた人々が、その鬱憤を仮想空間への逃避に費やすとすれば、それをほくそ笑んでいるのは権力を握っている上部の人たちだ。彼らは積極的に、若者たちをもう一つの世界に押し込もうとするだろう。特に日本は、先進諸外国に比べて彼らのプロテストやデモが少ないと言われている。メタバースで快適な生活を営んでも、現実世界は地球温暖化や貧富の差が加速し、灼熱地獄や飢餓地獄になりつつある。こんな危機的な時代だからこそ、人々は「積極的自由」を駆使しなければならないだろう。もちろんそれは、かつてガンジーが実践したような、非暴力によるプロテストだ。非暴力でも多数が動けば、飽和攻撃になりうる。これからの世界、ひょっとしたらメタバースで遊んでいる暇はないのかもしれない……。


 



砂漠の月


砂漠の月を見たことがあるなら
お月様の悲しい話を知るだろう
彼女は昔地球に棲んでいて
大きな洪水がその星を襲ったとき
美しい体はどこかに流されて
清らかな真円の魂だけが
風船玉のようにふらふらと
天空に昇っていったのだ


お月様は昔の出来事を忘れようと
もっと遠くに逃げようとしたのに
横暴な地球の投げ縄に捕らえられ
永遠に振り回され弄ばれ始めた
おまけにいたる所から石つぶてを投げられて
真ん丸の美しい姿は穴だらけになって
すっかり汚されてしまったのだ


そして悲しい心から涙が流れ続け
また再びあのときのように
恐ろしい洪水になろうとしたとき
涙が熱い心から溢れることに気付いたのだ
お月様はあのときの辛さを忘れるために
心の底から冷えなければならないと思った
そうして心の全てが冷えていき
溢れる涙はたちどころに止まり
たちまち氷になったのだ


その後、死んでしまった多くの心が
煮えたぎる魂をクールダウンして
まとわりつく涙を凍らせるため
お月様のひざ元に昇っていく
水を追い出した砂漠から眺めると
月が異様に輝いているのは
砂たちも彼女の心を知っているからに違いない…



メタバース
あるいはまことの姫様


僕はあのときなけなしの小銭で
一杯のコカコーラを買って
ストローを分厚い唇できつく挟み
無言のまま無数の人たちと
磁石のマイナスどうしのように
互いに身をかわしながら
アスファルトの上に
シマウマの乾し皮を貼り付けたような
スクランブル交差点を横切りながら
何の目的もなく飾り窓の店々をのぞき見し
磁石のプラスとマイナスのように
すれ違う綺麗な女たちに引き寄せられながらも
未解明の反発力で彼女たちは去っていき
長い時間を無駄に使うために坂道を歩き回り
孤独を忘れようと上回る倦怠感を身に纏い
晩飯のパニーノを買って家路についたのだ


そうして僕は万年床の上で
乾皮症のパン屑をボロボロ落としながら
VRゴーグルをかぶって胸をときめかせ
あの安らぎの砂漠に住む王女を探した
彼女はいつものように無限の砂丘の上に
水を嫌う人魚のように
シェヘラザードの好んだシースルーの
ハーレムパンツとブラトップを纏い
孤独な僕を迎え入れると豊満な胸を寄せ
僕の唇に軽く接吻しながら
香水のような息を軽く吹き付けて
愛くるしい眼差しで微笑みながら
なぜ私を寂しい思いにさせるのと呟く


ここはヴェーヌスベルクでも阿片窟でもないわ
それでもここがあなたの世界であることを知るべきなの
あなたはあちらで水をなくした魚のように苦しんで
こちらでは砂を得たサソリのように大胆になれる
そのわけは私があなたのことしか愛していないから
なのにあなたがあちらの世界に未練があるとすれば
あなたは本当に私を愛しているのではなく
あちらの寂しさをこちらで慰めているにすぎない
きっとあなたは本当の愛を知らないし本物の恋も知らない
それはあちらの世界で初めて出会ったお母さまに感じた愛
ロミオとジュリエットが聖堂で激しくキスをした初めての恋
それらのどちらも知らないというなら
それらのどちらかを知らないというなら
こちらの世界で両方ともあなたに差し上げましょう
どちらがまことかどちらが夢かはどうでもいいこと
こちらがまことならあちらは夢
こちらが夢ならあちらはまこと
あなたが決めることはたった一つ
あなたが探し続けてきたまことの愛がある世界を選ぶこと
そして私の願うことはたった一つ
あなたのおそばにいつも寄り添うこと
そしてあなたの悲しみがどこかへ飛んでいくこと


…そして僕はまことの世界がこちらにあり
悪夢の世界にはもう戻らないと心に決めた





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