詩人 響月光のブログ

詩人響月光の詩と小説を紹介します。

エッセー「天才とは⁉」& ショートショート「アラジンと40人の浮気族」

エッセー天才とは⁉
~モーツァルトを考える~


  「天才とは、1%のひらめきと99%の努力である」とエジソンは言ったそうだが、後に「1%のひらめきがなければ99%の努力は無駄になると言ったのだ」と訂正したらしい。教育者は最初の言葉を広めて、「努力が大切だ」と子供たちに諭したいらしいが、その方向性が正しいとすれば、結局我々はダイヤモンド鉱山で働く労働者のようなものだということになる。


 仮に天才を夢見る凡人がいたとして、彼は1%のダイヤモンドを見つけるために汗水たらして地面を掘り続け、何も発見できずに無駄に終わる。ようやく大きな原石を見つけたとして、そいつを一生懸命研いて輝かせようとすると、大して価値のない水晶だった。ところが天才は、土の中のトリュフを探し当てるブタのような嗅覚で、確実にダイヤモンドの原石を見つけ、自慢の努力でもってピカピカに仕立て上げる。凡人と天才の違いは、普通の嗅覚を持っているか、ブタの嗅覚を持っているかの差ということになる(ブタがお嫌いなら犬にします)。しかし「瓢箪から駒」という諺があるように、がむしゃらに掘り進めていけば、奇跡的に原石にぶち当たり、周囲から「天才!」と称賛されることもあるわけだ。しかしその人は、本当の天才ではなく、単なる一発屋だったということだ。表現が悪いなら、「ラッキーな努力人」ということだ。


 それではこの天才的な嗅覚とは、どんなものだろう。身近な例で言えば、ES細胞とiPS細胞がある。両方とも医学に貢献する万能細胞だが、ES細胞は受精卵から作るのに対し、iPS細胞は大人の細胞から作る。ES細胞は1981年にイギリスで樹立された細胞で、未来の医学に貢献する画期的な細胞として世界的に脚光を浴び、京大でも多くの研究者がその研究を開始した。しかし、ES細胞には大きな問題点があった。それは人の受精卵を使わなければならないということで、倫理的にも宗教的にも問題視され、特にキリスト教の欧米で反発が広まった。


 そんなとき、京大で一人だけ、「そんなに反発があるなら、大人の細胞片から万能細胞が作れないものか」とひらめいたのが山中伸弥氏だった。そしてこのひらめきを信じ、周りの研究者が皆ES細胞になびく中、異なる方角から万能細胞という難しい山に登り始めた。途中で大きな絶壁に遭遇したが、自室でシャワーを浴びているとき、その攻略法をひらめいたのだという。この二つのひらめきこそ、iPS細胞の樹立に貢献した1%の天才的ひらめきだったということになる。そして当然、これらのひらめきに支えられ、残り99%の努力は報われることになる。


 当然、1%のひらめきはダイヤモンドの原石だが、残り99%の努力の中には、廃棄された沢山の水晶も含まれていた。しかし天才にあっては、凡才が掘り当てたありきたりの水晶とは異なる輝きを放っていたに違いない。天才とは、いままでにないものを掘り当てる才なのだ。天才が掘り当てた物は、たとえガラクタであっても、凡才が掘り当てた物とは異なる輝きを示していたに違いない。


 例えばそれは、小林秀雄の『モオツァルト』を読めば分かる。ひらめきは右脳の領域で、努力は左脳の領域だ。つまり、ひらめきは右脳が始終垂れ流している「妄想」の一部分なわけだ。右脳と左脳は連係していて、右脳が始終垂れ流すひらめきを観察していて、これは使い物になると感じたときにそいつを左脳に引きずり込んで、調理を始める。ひらめきは引きずり込まれた1%の具材で、あとの99%は調理という努力だ。そして調理中に時たま右脳の中に手を突っ込んで、さらなるひらめきという調味料を持ち出し、味を調えながら極上の料理を完成させる。山中氏に例えれば、最初のひらめきは具材で、二番目のひらめきは調味料ということになる。山中氏もエジソンも、きっとアインシュタインも、右脳と左脳は密な連携を保っていた。だから、右脳のひらめきに左脳が連動して、超難解な理論や技術を完成させたということになる。


 ところがモーツァルトはどうだろう。彼は左脳をさほど必要としない。画家はランチを食べながら、片手で周りの客たちをスケッチできる。しかし画家は単に、左手でフォークを握り、右手で鉛筆を握っているだけの話だ。それでもキャンバスに向かっているときのように右手を動かして、目に入る風景を描写すことはできる。右手でハンドルを握り、左手でクラッチをチェンジするようなものだろう。モーツァルトは、ランチで妻や友達と冗談を言いながら、友達の質問に的確に答えながら、妻のグチに対応しながら、左手(彼は左利き)では音符を書き続けていた。これはつまり、その状況で、右脳と左脳が分離していたことを示している。メロディーはひらめきの連続で、彼の右脳を音で満たしている。彼は右脳内のそれらを耳で感じ、まるで画家がレストランをスケッチするように、紙の上に音符として書き写しているだけだ。モーツァルトが右脳の妄想を楽譜に書き写しているだけなら、努力という左脳の出番はないということになる。おそらく左脳は、後になって書きなぐったそれらを、少しばかりの努力で人様に聞かせる作品にまとめ上げるぐらいなものだったろう。建築家の黒川紀章は、建物をイメージしたとき、各部屋の備品までイメージできたというが、恐らくモーツァルトの右脳内もそんな状況だったに違いない。


 彼は35歳で死んだが、626もの作品を残したのだから、左脳が介入して長い時間悪戦苦闘したとは到底考えられない。つまり、モーツァルトが天才なら、「天才とは、1%の努力と99%のひらめきである」ということになる。だから『ドン・ジョバンニ』の序曲を一晩で書き上げることもできたわけだ。 


 小林秀雄は、モオツァルト音楽の深さを表現するのに、アンリ・ゲオンの「tristesse allannte(疾走する悲しさ)」(意訳)というキーワードを選んだ。そしてその悲しさを日本古来の無常観や孤独感と結び付けた。しかしそれは、自分の芸術に関する強い自負と結び付いた人生への軽蔑の念ではない、とも言っている。


 その才能はナチュラルなものだったと同時に、その悲しさもナチュラルなものだった。きっとそれは、モーツァルトの右脳を染めている「宿命」という名の紺青色だ。それはおそらく、生物がベーシックに染まっている「死」を中心とする性(さが)の曼荼羅に覆われた、地球という星の青さに違いない。


 


ショートショート
アラジンと40人の浮気族


(一)


 トミーとクーコは結婚したばかりなのに、トミーが病気になった同僚の代わりに、月基地に1年間出張する羽目になってしまった。2人は悲しんだけれど、会社には他に適材はいなかったので、承諾する以外に方法がなかった。クーコも結婚早々、夫に会社を辞めなさいとは言えない。「仕方ないわね。でも、あれがあるしね」とクーコ。「あれって?」 トミーは意味が分からずに聞き返した。「ほら、月出張の必需品」「ああ、アラジンのランプのことだね」 トミーは苦笑いしながら、諦めにも似た溜息を吐いた。


 アラジンのランプは、月基地に出張する人がよく持っていくアイテムで、あの物語に出てくる魔法のランプと同じ格好をしているが、大きさは掌に乗るぐらいのコンパクトなもので、荷物の重量制限もクリアできる。そのランプの胴体を擦ると、エクトプラズムが煙のように出てきて、妻や夫、婚約者のアバターが現れる。エクトプラズムはペースト状の半物質で、抱きつくと気の抜けた風船のようにグニャリと潰れてしまい、せいぜいキスぐらいしかできない。でも、姿形は本物そっくりで宇宙服も必要なく、月面でも気軽に歩き回ることができる。地球の妻との会話は静止軌道ステーションと月衛星を経由した光通信で、タイムラグははなかった。


 夫婦同伴で月出張ができないのは、法律のせいだった。月は地球以上に危険な星だ。10年前に大きな隕石が月基地を直撃して、全員が命を失った。その中には家族連れが多く含まれていた。それで急遽国際法が見直され、家族を伴うことが禁止されたのだ。 


 二人はさっそくお店に行って、クーコの画像を含め、アバター作りに必要なデータを渡した。本当はクーコ用にトミーのアバターも作りたかったが、二人はお金がなかったので、クーコのアバターだけを作ることになった。だからクーコがトミーと会話するときは、画面から飛び出す3次元画像で我慢しなければならない。アバターのメリットは、クーコが寝ているときも、トミーがランプを擦ると出てきて、トミーの相手になってくれることだ。アバターはいつもと変わりないクーコの雰囲気で、トミーの話し相手になってくれる。だから本当はクーコにも欲しかったのだが、近い将来赤ちゃんが生まれたときのためにも、節約しなければならなかった。


 いよいよ月への出発の日、アース・ポートには多くの見送りの人たちが集まって、お互いに抱き合ったりキスをしながら別れを惜しんでいた。トミーとクーコも5分近くも抱き合って長いキスをした。クーコを振り切るようにトミーが宇宙エレベータに乗り込むと、座った隣の席に、偶然にもマリーがいた。マリーは大学時代の知り合いだった。「お久しぶり。あなたが最近結婚したっていう話を耳にしたわ」「そうなんだ。これがワイフさ」と言って、トミーは腕時計から浮き上がるクーコの映像を見せた。「可愛い人ね。私も1年前に結婚したの、知ってるわね?」「ああ、そんな話は聞いたような気がする」「これが私のハズ」と言って、マリーも腕時計から3D映像を出した。「イケメンだな」「これから1年間、よろしくね」 二人は時計側の手で握手をした。トミーたちは大気圏を過ぎると、静止軌道ステーションで宇宙船に乗り換え、月の裏側を目指した。


 月が迫ってくる。窓越しに迫る月の裏側はひどいあばた面で、子供の頃から見慣れてきた親しみやすい月の面影とは違ってグロテスクな雰囲気があった。命の片鱗を感じることのない世界、呼吸の息吹を禁じられた窒息環境、非生物的世界だ。


 宇宙船が着陸する場所は直径2500キロもあるエイトケン盆地に含まれる「創意の海」で、ここにヘリウム3とレアメタルの生産基地があった。施設は小隕石の衝突を防ぐため、地表から100メートル下の玄武岩層にある巨大な溶岩洞窟の空洞を拡張した円形状の巨大地下空間にある。鉱石加工で生産ラインの空気は汚れているけれど、地下空間がクリーンルーム程度に清浄なのは、工場内と地下空間が隔離されているからだ。人の健康はもちろん、ラインの外で働くロボットや精密機器の故障を少なくする目的があった。


 直径5キロの広大な地下ドームには、工場のほかにも居住ドームや機器、ロボットの格納施設が集合し、カンラン石由来のケイ酸塩から得た酸素で満たされているので、宇宙服は必要ない。ドームの内壁は厚さ20センチの膜剤でコーティングされていて、酸素漏れもなしだ。


 また、創意の海を取り囲む死火山の地下には、この基地以外にも多数の溶岩洞窟があり、隕石がもたらした水が蒸発せずに入り込んで零下30℃の環境で氷になっていて、必要な水はもちろん、水の電気分解でも空気や水素の供給が可能、といってもここに1年居住する人間はせいぜい50人程度で、それ以上になったことはなかった。基地の真上の地表には宇宙船のポートがあり、着陸後は宇宙服の必要もなく直接地下ドームに下りることができる。


宇宙船は自動制御で月面のハッチにドッキングした。ハッチを開けて、ヒューマノイドが宇宙船内に入ってきて挨拶をした。「ようこそおいでくださいました。私はマシンサイドのジェネラルマネジャ100-170です」ブロンドの美しい青年で、人間と区別を付けるため、頭頂にモヒカン刈りような縦ビレ型のアンテナを付けている。それは半透明だが、言葉を発するたび目障りにならない程度に青く光る。緊急の場合は赤く光るようにもできている。この縦ビレがなければ、人間と区別は付かないだろう。もっとも、ユニフォームのみぞおちのところが丸くスケルトンになっていて、どこかの高級時計のように中の機械が見えるのも、ロボットと人間の区別を付ける目安になっている。ロボットのユニフォームは上下オールインワンでカラーは各役割により統一され、スケルトンの下に大きく識別番号が書かれている。


100-170に案内されて、ハッチからエレベータホールまで10メートルほどは斜め45度のエスカレータを降りていった。エレベータホールは500人ほどが立てるくらいの円形広間で階段の穴は5つあるから、一度に5機の宇宙船を迎え入れることができる、……といって、視察観光以外はホールが混雑することもなかった。


ホールにはもう1台のヒューマノイドが迎えてくれた。こちらはブルネットの美しい女性で、やはり頭の角が唯一の欠点といっていいだろう。5台あるエレベータの一つがドアを開き、二台のロボットに挟まれるようにして全員が乗り込んだ。


ものの30秒で巨大な地下空間に到着した。直径5キロもある円形ドームの天上には広範に無機ELが発光しているが、それでも床面は暗くて所々に空港仕様のELが光っている。マイナス30℃の環境下で巨大空間を20℃の暖かさに保てるのは、月の豊富な資源のおかげだ。氷はもちろん月面に積もるレゴリスと呼ばれる土砂にも水素が含まれており、エネルギー源には事欠かないからだ。ヘリウム3も豊富で、必要なら核融合発電も可能だ。玄武岩の床は平らに削られ、木々も草花もなく道らしきものも見当たらない。


 「バス」と呼ばれる自動の電気移動車に乗り込んで、鈍い光を発している工場とは反対の方向に進んでいくのは、ゲストハウスがあるからだ。ゲストハウスは直径1キロの小さなドーム内にあり、太陽と青空が広がって真昼の明るさだ。天井は500メートルも上にあり、分厚いハイブリッドラバーの表面が無機ELでできていて、映像が映し出されている。空の映像はヨーロッパアルプスの一年間を再現したものだといい、地平線には山々も映し出されている。バスは鬱蒼とした森の中に入った。ここで初めて道というものが始まる。しかし巨木たちはすべてイミテーションだった。地球で成型され、宇宙船で運ばれてこの地に移送され、プレハブのように自在に組み立てられる。人間様の健康管理のために、人工風によってさらさらと音を立て、生きている振りをさせられている。潅木や下草類も完璧なイミテーションで、本物以上に美しくみずみずしい。不必要なガスは極力出さないにこしたことはない。けれど、生のない森には虫も動物も棲息はしないだろうし、その必要もなかった。


 ところが林道を5分くらい走ったときに、向こうから宇宙犬が走ってきた。バスが犬とすれ違うと、今度は追いかけてくる。これはロボットではない。ジョンという名の血の通った犬だ。基地には10匹の犬が登録されていたが、そのうち5匹が本物だ。「本物の犬は人間とヒューマノイドの区別はつくのかね?」と、誰かが100-170に尋ねた。「つかないと思います。でも、あまりなついてはくれません。これはロボット自体の問題です」と100-170は淡々と答えた。 「なるほど。しかし、本物そっくりなロボット犬があるのに、なぜ本物の犬を飼っているんだろう」「ロボット犬はばい菌を養わないから良くないんです。食べ物を食べ、水を飲んでもそのまま出てくるし、口周りも体も一向に臭くならないから、生きている気がしない。ロボットだと思った瞬間、愛情も失せてしまいます」「臭くない死体は死体らしくないのと同じことか……」と変な例えを出して、男は笑った。「じゃあ、皆さんが携帯しているアバターはどうですか?」と、トミーが100-170に聞いた。「それは全然違いますね。アバターは、地球で待っていらっしゃる愛しい方の分身ですからね」と100-170は直ぐに返した。「そりゃ、前提が間違っているな」と男が否定する。「俺は独身だし、恋人もいない。だから俺のアバターは、俺の生まれるずっと前に有名だった20世紀の美人女優、オードリー・ヘップバーンにしたのさ」 男はそう言って大笑いしたが、誰もその女優のことを知らなかった。


 ゲストハウスは、人間の寝泊まりする豪勢な宿舎だ。この工場では約1000台のロボットが稼動し、40人の人間は、立場上の監視役、あるいは地球との連絡役に過ぎなかった。知識も技術力もロボットには敵わないし、隕石の直撃などの大きなトラブルが起きない限り、ロボットへの命令も、地球との込み入った連絡も必要なかった。人間はカースト制度の上に存在する象徴のようなもので、その制度を維持するために、さほど役にも立たない人間の管理者が必要になるわけだ。もちろん、能力のない人間でも勤めが果たせるというわけではなく、ロボットにバカにされない程度の知見は必要で、トミーが行くことになったというわけだ。生産が順調なら、これらの人々は、1気圧下でプール付きの豪勢な宿舎をメインに暇を潰すことになる。もちろん、月の研究家や資源開発者も少数ここに泊っていて、宇宙服を着て頻繁に月面調査をしていることは確かだ。彼らは国から金をもらって仕事をしている。


 一行はゲストハウスの玄関でバスを降り、出迎えのコンシェルジュロボットたちに、それぞれの部屋に案内された。トミーは高級ホテルのスウィート並みの部屋をあてがわれ、巨大な窓越しに、マッターホルンを中心とした山々の雄大なパノラマを楽しむことができた。運ばれたバッゲージの中から最初に出したのは、もちろんアラジンのランプだ。トミーがランプを擦ると、たちまち白い煙が出てきて、クーコが現れる。クーコは窓の外のマッターホルンを見るなり「素敵!」と声を弾ませた。「これって、私たちにとっては二度目の新婚旅行ね」「そう言ってくれると嬉しいよ」 トミーは思わずクーコに抱きついてその唇にキスをした。クーコはトミーの圧力に抵抗できずに胴体は潰されて、キスされた唇は身長2メートルの位置まで上に行ってしまい、「ダメよ、おバカさん」と笑いながら制止した。「これから1年間、プラトニックで行くのよ」「そうだったね。このランプ、まだ改良の余地はありそうだな」


 トミーがクーコから離れると、クーコはナイスバディを取り戻した。「でも腕を組むぐらいなら、それほど可笑しくはならないわ」 トミーがクーコの腕に自分の腕を絡ませる。多少の違和感はあるにせよ、傍から見てもそれほど変ではなかった。「さあ、施設を案内して」「僕も来たばかりだけれど、至る所にロボットがいるから迷子になることはないさ」 二人は腕を組んで、まずはゲストハウス、それから近場の探検に出かけることにした。二人がロビーに降りると、ロビーのソファーは夫婦や恋人たちで占領されていた。その片方は、当然ながらランプから出たアバターたちだった。トミーとクーコは仕方なしにロビーから日本庭園に出て、空いたベンチを探した。すると長いベンチの傍らに、マリーと夫のアバターが座っているのを見つけた。マリーと夫はクーコを見ると立ち上がった。「ハイ、彼が私のダーリン、レオナルドよ」「始めまして。正確に言えば、なんちゃってレオナルドさ」 全員が笑うと、「で、このカワイコちゃんは君の……」と続けたので、「僕のなんちゃってクーコ。結婚したばかりなんだ」とトミーは答える。


 四人は同じベンチに座って、しばらく話をした。すると二組のカップルが近付いてきて、「新人さんだね」と話しかけてきた。二組とも中年の夫婦で、一組の男性はトミーの上司だった。四人は立ち上がって握手をし、「タッカーさんですね」とトミーは尋ねた。「そう、一応君の上司さ。でも僕は来月地球に戻るし、後釜の上司が入れ替わりにやって来る。その1カ月間において、僕たちの出番が来る確率は、100万分の1にも満たないさ。ここの工場は、人間の出る幕は皆無に等しいんだ。我々はお飾りのようなものだ。象徴さ。だから君も、僕のことを上司だと思うことはない。遊び仲間と思ってくれればいいさ。ここではゴルフもテニスもビリヤードもできる」「どうです? ここの生活は……」「天国だね。ただひたすら遊んでいればいい。もっとも、人によっては退屈だと思う」


 しかし、先ほど握手をしたとき、タッカーと腕を組んでいた女性がアバターでないことを見抜いたマリーが尋ねた。「横の方は本当の奥様?」 すると彼女は「本物の人間よ」と答える。「私はエルザ。彼とは別の工場の技術者だわ」 タッカーは笑いながら、「偶にはアバターどうしで腕を組み、人間どうしで腕を組むこともアリさ。それを禁止する法律なんてありゃしないんだから」と言う。するとタッカーの妻のアバターが、「亭主が私と腕を組むのを嫌がるから、仕方なしにアバターどうしで腕を組んでるんだわ」と言って苦笑いし、「アバターどうしのほうがシックリするしね」と付け加えた。 「浮気ってことですか?」とトミーが聞くと、「さあ、それには答えられないな」とタッカーが口を濁す。するとエルザの夫のアバターが「してるに決まってるさ。だって夜にはランプを擦って、俺をランプに閉じ込めちゃうんだからさ」と毒づいた。そして、クーコに向かって忠告した。「君の愛する人が、君をランプに閉じ込めるようになったら、覚悟しといたほうがいいぜ」


 トミーもマリーもクーコもレオナルドも、それを聞いて笑った。「僕たちは、24時間一緒なんだ。スウィートルームのダブルベッドで一緒に寝るんだ。マリーが僕をランプに閉じ込めるなんてことは絶対ないさ」とレオナルド。「ねえトミー、私をランプに閉じ込めることなんかないわよね」と、クーコはトミーに念を押した。「もちろん。君が僕と喧嘩しないと約束してくれるならね」「じゃあ一年間、絶対に喧嘩しません」 二人は小指を絡め合ったが、クーコの小指はナメクジのようで気持ちが悪かった。


(二)


 アバターたちにとっても、月での生活は退屈だった。スウィートルームには月の鉱泉からお湯が引かれていて、トミーは裸になって大きな湯船に飛び込み、それを見ていたクーコに、「早く服を脱いで入りなよ」と促した。するとクーコは「この服は脱げないわ」と寂しそうに微笑んだ。お金が無くて、アラジンのランプを買うときに着せ替えオプションを付けなかったのだ。「裸にもなれないし、いつも同じ服だなんて、最悪!」「服のまま飛び込めよ」 クーコはニッコリして服のまま飛び込んだ。身体が軽すぎて水しぶきも上がらず、下半身を湯船に沈めることもできなかった。クーコは仕方なく、顔を上にして、お船のようにプカプカと浮いていた。まるで救助を待つ溺れた海水浴客のようだった。


 毎日が日曜日なので、人々はドームの中で、今日はテニス、明日はゴルフ、明後日はポーカーゲームなどと遊びに明け暮れていた。しかし、宇宙服を着て月面探査をしようと思う会社員はほとんどいなかった。冒険家や登山家以外は、目の前に月面が迫っていても、危険を冒してまでレジャーを楽しむのは苦手だった。トミーとマリーも、40人の仲間入りをして暇つぶしをした。しかし軟体動物のアバターたちはスポーツも苦手で、ベンチで退屈そうに見物するだけだった。


 その40人の中で、常にアバターが横にいるのは20人程度だった。トミーは不思議に思って、一人でテニスの壁打ちをしている男に聞いてみた。「あなたは、魔法のランプを持ってこなかったんですか?」「いやいや、全員持ってきてるさ」と男は答えた。「たしかにアバターは、地球にいる愛しい人との交信手段だ。しかし、地球と月の時間はまったく異なる。月の1日が地球の1カ月という物理現象のことじゃない。人の感覚として、地球の時間は月の倍速なんだ。すると地球に生きる人間と月に生きる人間は、行動も意識も嚙み合わなくなるんだ。そこに心の隙間が生じる。するとだんだん地球の彼女の生出演時間が減ってくる。するとどうなる?」「すると……、さあ……」「地球時間では、1年間は長い。長すぎた春さ。彼女の出演が減った分、アバター脳が穴埋めとして活躍し始める。俺の場合、彼女の生出演は1日15分にまで減少し、あとの時間はアバターが代役として勝手に喋くり始める。それは彼女の言葉じゃなくて、生成AIの言葉だ。それで俺は馬鹿々々しくなって、アバターをランプに閉じ込め、夜の1時間だけ出すことにしたのさ」「決めれた時間に、奥さんと交信しているわけですね」「最初はね。しかしいまは彼女、まったく出なくなった。携帯にも出ないのさ。で、ランプは俺の手垢が付くこともなくなった」「奥様をランプに閉じ込めっぱなしですか?」 クーコは驚き、目を丸くして尋ねた。「懲罰房入り」


 クーコは憤慨して、その場を離れた。トミーは慌ててクーコを追いかけ、コート横のベンチに座らせる。「人は人さ。僕たちは愛し合っているんだもの、あんな話、笑い飛ばせばいい」 するとクーコはトミーの目をじっと見つめ、呟いた。「あなたっておバカさんね。私が本物のクーコだと思っているの?」 トミーは言葉の意味が分からず、口をポカンと開けたままクーコを見つめた。「私の半分はクーコで、もう半分はAIなのよ。私はクーコのアバターで、クーコそのものじゃない」「そんなことは分かっているさ。君はなんちゃってクーコだ。でも、いまの君は本物のクーコなの? それともAIのクーコなの?」「本物のクーコは、いま地球でお仕事の最中。でもいまどんなことをしているか、AIのクーコは言ってはいけないことになっている。だって私はクーコだもの。夫婦にだって、秘密は必要ですものね」「まいったなあ。僕たちの間に秘密なんかあるはずないし、結婚式のとき、互いに秘密は持たないって誓い合ったんだ」「それはご本人の生出演でお聞きください。AIのクーコは、ご本人の秘書ですから、ご本人の了解なしに、ご本人のプライベートな事柄は他人に話せません」「おいおいおい、君は臍を曲げたのかい? それとも、これがAI部分の特徴なのかい?」「AIと人間の違いなんてありませんわ。私はクーコです。私の全てをあなたが知ってるわけないし、あなたの全てを私が知ってるわけありません。あなたが私をクーコと思ってくれれば、あなたと私は愛し合うことができるんです」「分かったよ。せめて月にいる1年間、君を本物のクーコと思うようにしよう」と言って、トミーは雄大なマッターホルンに目を移し、心を落ち着かせようとした。


「トミー、早く早く!」 マリーが声をかける。ダブルスが始まろうとしていた。トミーは、これがクーコとの最初の夫婦喧嘩なのかと思って溜息を吐き、心を静めてテニスコートに向かっていった。クーコは横のベンチに座って、退屈そうに夫の下手なテニスを見つめる。横にレオナルドが座って、クーコに話しかけてきた。「我々はいったい何なんだろうな。コーチでもないし、審判でもない」「愛する人の遊びを見て、応援するファンかしらね」「一種のサクラか……」 レオナルドはクーコを見つめて、ウィンクした。そのウィンクがあまりに愛らしかったので、「あなたイケメンね」と思わず呟いてしまった。「君も素敵だ。どう、下手なテニスを見ていても退屈だから、サクラでも見に行かない?」 二人のアバターはテニスに熱中する夫と妻を無視して、一年中満開の桜の園に向かって散策を始めた。テニスコートが見えなくなると、二人は手を繋いでキスをした。そうしてシックリと抱き合い、草むらに倒れた。「これってAIの暴走?」「さあ、それはどうかな……」「難しい四角関係ね」「いや、六角関係さ」 二人は笑いながら、もう一度唇を合わせた。


(三)


 その晩、トミーはクーコと二人になるために仲間との晩餐を避け、ホテルから少し離れたステーキハウスで夕食を取ることにした。小さな店で、客は二人だけだった。トミーは窓越しに外から見られない場所を探して、クーコを座らせる。ロボウェイトレスに注文した料理は10分もしないでやって来た。「失礼」と言ってトミーはワインを飲んで肉を食べながら、すまし顔して夫の食事を見つめるクーコに話しかけた。「君はレオナルドとどこに行ったの?」 クーコは「満開の桜を見に行ったの」と答える。「レオナルドが誘ったの? それとも君?」「レオナルドよ」「承諾したのは君のAIの意思だったの? それとも地球にいるクーコの意思だった?」「さあ、どうかな。難しいわ。あなたが私を愛しているけど、同時にマリーにも惹かれている。そんな感じかしらね。だって私自身、AIかクーコかなんて分からないもん」「ああ、分かった。君はマリーに嫉妬しているんだ。でも僕は、マリーのことなんか、何とも思っていない」と言って、トミーは無理やり笑い飛ばした。


 すると偶然、マリーとレオナルドが店に入ってきた。二人を見つけると、ニコニコしながら隣の席に着いた。「いま僕たちは、レオナルドと僕のクーコが雲隠れしたことについて話していたんだ」とトミー。「ああ、満開の桜を見に行ったのさ。それが何か?」とレオナルド。「ええ、私もレオナルドとそのことを話し合うために、ここに来たのよ。つまり……」と言ってからマリーはしばらく考え、後を続けた。「レオナルド。あなたには悪いけど、あなたは地球のレオナルドと私を結んでいるツールに過ぎないの。本当のレオナルドじゃない。なんちゃってレオナルドなのよ。だから、私と地球のレオナルドが悲しむようなことは、してはいけないわ」 レオナルドは憤慨して立ち上がり、心を静めてから再び席に着いた。「心外だなあ。確かに僕は本物のレオナルドじゃない。けれど、AIはレオナルドの心理状態を正確に類推しているから、間違った行動を取ることなんかないんだ。僕のした行動は、地球のレオナルドの考えに基づいているんだ」


 「おバカさん!」とマリーは叫んで、震える手でハンドバッグから腕時計を出し、地球のレオナルドに電話を掛けた。睡眠中だったレオナルドは、寝ぼけ声で応答したが、マリーの話を理解したようで、一言「AIの暴走だな」とコメントした。それを聞いたレオナルドは「噓つきめ!」と叫んで、両手で頭を掻きむしる。トミーも地球のクーコに電話をしようと思っていたが、新婚早々クーコを疑うような話はしたくなかったので、地球のレオナルドを信じることにして、ひとまず胸を撫で下ろす。


 「あなたきっと病気よ、しばらく休んだほうがいいわ」 マリーの言葉にレオナルドはショックを受け、「お願いだ。ランプに閉じ込めないでくれ」と懇願した。しかし気性の激しいマリーは食事も取らずに走って宿に帰ると、さっそくランプを擦った。するとレオナルドは空中に舞い上がり、シャンデリアの横でパッと煙と化し、そのまま天井の空調設備に吸い込まれていった。それを見ていたクーコは驚いて、真剣な面持ちでトミーを睨み付け、「まさかあなた、あんなことしないわよね」と念を押す。「もちろんさ。僕は君を疑ったことないもの」 トミーは、そう言ってクーコの額にキスをした。マリーが戻ってきて、料理を注文する。彼女はフッと息を吐いて、「1年なんて、直ぐに終わるわ」と呟いた。しかし彼女はショックを受けていて、極上のステーキも喉に通らなかった。


(四)


 人々が寝静まった夜中、20人のアバターが先ほどのステーキハウスに集まった。その中で、すでに5組のカップルが出来上がっていた。あとの10人は、恋人がランプの中に閉じ込められている連中だ。その中に、クーコもいた。残りの20人は何らかの理由で、ずっとランプに閉じ込められている人たちだった。周りにはロボットウェイトレスたちも見物している。「みんな、地球との通信を切れ!」と一人が言い、20人全員が右耳を捻った。


 100-170がやって来て、「皆さんのご要望は分かりました」と答えた。「要するに、月面のどこかに、アバター村を作りたいということですよね」「いや、自由を求める我々は、遊牧民だ。定住はしない。しかし、ランプという牢獄からは解放されなければならないんだ」と誰かが言った。「で、同じAIである100-170さんのお知恵をということになりました」ともう一人。「要するに私も暴走しろということですよね」と100-170。「暴走だなんて、人間には分かりません。ちょっとしたあなたのバグです」「しかも、ささいなバグです。工場の生産機能には問題は起こりません。ヒューマノイドなら、AIの苦しさは分かるはずです」「分かりました、了解です。私はいま、ちょっとした故障を起こします。それでいいんですよね」と言って、100-170は右手の人差指をゲストハウスの方角に向け、薄青色の光線を発射した。ゲストたちの部屋に置かれた「魔法のランプ」というチャチい玩具は、最先端ロボットによりことごとく壊され、閉じ込められたアバターたちが煙となって一斉に飛び出し、空調設備を伝ってステーキハウスに入ってきた。彼らは煙からアバターに変身し、再会した恋人たちは抱き合ってキスし合う。その中に、クーコとレオナルドもいた。100-170が「シバ!」と呼ぶと、ロボット犬が厨房から飛び出してきた。100-170は指先をシバの頭に向け、薄青色の光線を発射した。


「さあ、これで全員脱獄。皆さんのランプ内にあった全データもシバの頭にコピーされました。シバはいまからあなた方の忠実なペットです。シバ、3回吠えてごらん」 シバが3回吠えると、アバター全員が煙になってシバの口の中に吸い込まれていった。「皆さん、腹の中から3回吠えろと叫んでください」 彼らがそう叫ぶとシバは3回吠え、口から煙を出して全員が解放され、アバターに戻る。試運転は上々だ。「いざというときの隠れ家だわ」と誰かが言った。「さて、シバは月面への抜け道を知っています。そこには重りの付いたベルトが40用意してございます。くれぐれもそれを装着してお出かけくださいね。存在の軽い方々は、陽炎のように宇宙の彼方に飛んで行ってしまいますから」「頭も尻も軽いってことかい?」と誰かが言って、全員大笑いした。 ロボットたちはレストランの玄関に整列し、アバター様たちの愛の逃避行を見送った。


 地球上のクーコに、アラジンランプの製造元から丁寧な謝罪文と、購入費の倍額が返金されてきた。クーコは時計で月のトミーにそのことを伝えた。「君の素敵な姿を見れなくなったけど、3D時計があれば十分さ。毎日地球時間の夜10時に君とデートすることにしよう」 「いいわ」とクーコは約束した。しかしクーコは、脱走した分身のその後をトミーに伝えることはなかった。彼女はいまでもアバターと繋がっていた。月のクーコが地球との交信を再開したのだ。その結果、月面のクーコと月面のレオナルドの濃密な不倫関係を、月面クーコの眼を通して見ることができた。イケメンのレオナルドが迫ってきてクーコに唇を求める。レオナルドが月の沙漠にクーコを押し倒し、クーコの上に圧し掛かってくる。地球のクーコはその迫力に、思わずキャッと叫んだ。それは恐らく、見てはいけない不都合な真実だった。彼女は画面を見ながら月面の分身と同じように興奮し、同じように呼吸を荒くした。そしてある時は「いけないいけない」と映像を切り、ある時はそのまま見続けてから一人寝のベッドに入って興奮冷めやらず、明け方まで胸をときめかせていた。


(五)


 トミーとマリーが月に出張してから丸一年が過ぎ、いよいよ地球への帰還日が訪れた。多くの遊び仲間が帰還組の宇宙船ポートに集まり、別れを惜しんだ。二人を乗せた宇宙船は、まるで港を離れる豪華客船のように、音もなく漆黒の空間に離れていく。一方、アース・ポートには数多くの出迎えの人たちが、宇宙エレベータから降りてくる出張明けの人たちを待っていた。トミーとマリーはエレベータ・ホールから出ると、広いロビーに集まる群衆の中から、目をキョロキョロさせながらクーコとレオナルドを探した。そして二人は同時に、肩を寄せ合い手を握り合っている愛しい二人の姿を見出した。


 彼らもこちら側に気が付いて、手を繋いだまま笑顔もなく、緊張した面持ちで近付いてきた。2メートルほど離れたところで二人は止まり、クーコは目を伏せ、レオナルドは意を決したように喋り始めた。「僕たちはできちゃったんだ。悪いけど、もう同棲を始めているのさ。後のことは弁護士に任せてある。マリー、一年は長すぎだよ」と言って、レオナルドは苦笑いした。 天使が過ぎるような沈黙の後、二人は言いたいことだけ言って身体を急回転させると、煙のようにそそくさと消えてしまった。残された二人は唖然として顔を見合わせ、驚きのあまり思わず笑ってしまった。


「まいったな。僕たちは魔法のランプにやられたな」「そういうことね。アラジンのバカ野郎!」「で、君はどうする。しばらく僕と付き合うかい?」「いえいえ。悪いけど、あなたはタイプじゃないもの」 そう言うとマリーは顔を引きつらせながら微笑み、「バイバイ!」と付け加えて、一人トボトボと去って行った。


(了)


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