詩人 響月光のブログ

詩人響月光の詩と小説を紹介します。

エッセー「心・技・体」& 詩

エッセー
心・技・体
~男女不平等は続く~


 相撲では「心技体」という格言があって、精神と技術、体格の全てがバランス良く整ったとき、最大限の力が発揮できるのだという。力士の戦いの場である土俵は女人禁制で、女性は上がれないらしいが、土俵の半分弱のサークルを描いて、そこに女性を招き入れる魚がいる。奄美大島界隈の海に棲むアマミホシゾラフグという魚で、オスが腹やヒレを使って海底の砂に直径2mの美しいサークル模様を描くことで有名になった。このサークルはメスを迎え入れる産卵床で、愛の土俵だ。メスはそいつが気に入ると土俵内で産卵し、オスは精子をかける。出来栄えによって、メスが順番待ちをする人気土俵があったり、一匹も来ない土俵があったりする。結果として器用なオス系統が繫栄し、不器用なオス系統は途絶えることになっていく。つまりこの魚の子孫繁栄のポイントは「技」ということになるだろう。言い換えれば、美しい巣をチョイスするメスの美的感覚を満足させるため、オスたちは技を競っているということだ。


 ではサケはどうかと言うと、体躯の良いオスは小さなオスを追い払い、メスの産卵に加わることで大型サケの系統が繋がっていく。そのとき、産卵間近なメスの前で、オスどうしがバトルを繰り広げる。メスには好みで相手をチョイスする権限はなく、こらえ切れなくなって卵を放出したとき、大男が寄り添って精子をかけるわけだ。一方アマミホシゾラフグと同じく、美声を競うウグイスや踊りを競うゴクラクチョウは、オーディションみたいにメスがその出来栄えを審査して採用を決め、歌やダンスの優秀な遺伝子が繋がっていく。アマミホシゾラフグのメスは巣作り、ゴクラクチョウのメスはダンスのテクニックから、オスの運動能力を勘案し、それを自分の子供に託すというわけ。このように、体力で競ったり、技で競ったりと色々だが、繁殖行動は生存競争の主役であり執念の世界だから、当然のこと、心技体の「心」は十分に備わっているだろう。恐らくアマミホシゾラフグやゴクラクチョウのメスは、必死に曼荼羅模様を描いたり踊ったりするオスの心意気に惚れるのだ。心技体が相撲の勝利を保証するなら、その格言は生き物たちの繁栄をも保証しているに違いない。相撲も繁殖も同じ生存競争だからして……。


 サケの場合、小さなオスは小回りが利くから、大きなオスに追い払われても、メスの産卵時に岩陰からさっと現れ、メスを挟んで勝者の反対側から精子を放出したりする。その直後に勝者が放出しても、先に卵子に入り込んだ精子が結ばれ、勝者は敗者となる。これは巧みな「技」の世界で、小兵力士が八艘飛びで相手の後ろまわしを取る戦法と似ている。大きいのが主流としても、大きければ絶対ということでもなく、餌の問題もあって世代でサケがどんどん大きくなっていくこともない。プロレスを見ても、小回りの利くレスラーが、巨大なレスラーを翻弄して勝ったりする。マッチョな身体も華麗な技も美しく、「美」は体であり、技でもある。それでは「心」はどうかというと、必死に食い下がる小兵的精神に多くの人々は「美」を感じるだろう。心技体はすべからく美しい。 


 しかし「心技体」が勝負の決め手なら、それは相手を負かすための手段となってしまう。ところが相撲は、ルール違反しなければ何をやっても良いという外国のスポーツとは少々異なる。相撲協会に言わせると、あれは神事らしい、となると「心」は努力だけではないことになる。だから「女は不浄のもの」という前近代の伝統に則って、女性は土俵に上がれない。これは男と女を分けるイスラム教の風習と似ている。同様に心技体に美を感じるファンは、横綱の注文相撲を「醜」として嫌う。心技体を具現した横綱には神が宿り、正々堂々という「心」が付随する。つまり相撲における「美」は体力や技による勝敗だけでなく、神事を意識する角界やファンの心が常に付きまとっているということになる。横綱がそれに反するとファンは失望し、人気が落ちる。外国人横綱が注文相撲を多発したとすれば、相撲を神事だとは思っていないからだし、日本特有の恥の文化に馴染んでいないからだろう。


 「美」はあくまで受け取る側の価値基準に左右される。勝敗の外側に相撲ファンの美意識があるように、アマミホシゾラフグの巣も、ゴクラクチョウの踊りも、それがオーディションである限りは、はた目にはいくら美しく思えても、メスの判断で決定する。オーディションなら「美」は「蓼食う虫も好き好き」と言われるように、本人の肉体から表出した現象を、審査員が感覚としてどう受け取るかの印象に過ぎなくなる。体であろうと技であろうと心意気であろうと、それらはメスの価値基準に適合するかしないかの問題だ。それらが遺伝子レベルでの優劣という「価値」であっても、あるいは真に優秀な内容の表出であっても、相手が気に入らなければそこで終わってしまう。


 オスとメスが出会ったとき、オスは内なる価値をいかに相手に伝えるかを考える。サケのオスは力という価値でメスを獲得し、ゴクラクチョウのオスは美技という価値でメスを獲得する。つまりサケのメスは、価値基準をオスのパワー(体)に置き、ゴクラクチョウのメスは価値基準をオスの技に置いているということだ。これらの性愛は、一期一会を基本としている。ミジンコ(耐久卵)から人間に至るまで、性愛の基本は一対一だし、一期一会だ。だから「一目惚れ」というのは、恋愛の基本中の基本であると言えるだろう。それは恐らくサケではなく、ゴクラクチョウの系統に属する感情だ。ならば人間の場合、女性はサケとゴクラクチョウの混合感情で男を判断している。


 それは女性が子供の頃に夢想する「白馬の王子様」を考えれば分かるだろう。これは、あくまで受動的な立場の夢で、理想の王子は美化されている。しかし現実の王子様は「王になったら隣国を征服してやるぞ」という能動的な夢を持っている。王子様は夢の実現に向け、体を鍛える。結果として武勇に優れ、敵を蹴散らして彼女を守ってくれる。そして隣国を破壊・略奪したお金で、何不自由ない生活を彼女に与えてくれる。それはサケ的に「体」という言葉で表せる。「体」は、力、権力、資産だ。また王子様はイケメンでスタイルも良く、俊敏で女には優しい。これはゴクラクチョウ的な「美技・心」だろう。現代女性の感性は、当然のこと社会状況を繁栄しているわけだが、いまの民主社会が「男女平等社会」を最終目的とするなら、「白馬の王子様」を夢見る限り、弁証法的に言えば社会が未だ発展途上ということになるのだ。男女に限らず、あらゆる平等に王様の権力は必要ない。上下構造のない社会基盤には、「平和」が存在する。平和のない社会に平等は存在しないし、平和な社会では、女性は能動的で建設的な夢を見るに決まっている。


 現在は、真の男女平等社会にはなっていない。だから男たちは金を儲けて権力を握り、美しい女性を獲得しようと躍起になる。欲が欲を呼び、大富豪になろうとする。それは、どんなに醜い男でも、金と権力があれば、美人さんをゲットできる可能性があるからだ。逆に「色男、金と力はなかりけり」という川柳があるように、金のない男は女性の遊びの対象にはなっても結婚の対象にはならなかったりする。どんなに性格が悪くても美女は引く手あまただが、ミーのような心優しい金のない色男はそうでもない(???)。これは、男性中心の社会的基盤が古代から連綿と続いていることを意味している。テレビ広告に映し出される女性タレントは美女ばかり。男は幇間のようなお笑いタレントで、アホらしいギャグで金を稼ぐ。ニュースでは軍服姿の男たちが殺し合いを繰り広げ、男の原始パワーで満ち溢れている。戦場で多くの女たちは逃げ惑うか祈ることしか為すすべはない。


 「弱き者、汝の名は女なり」という状況はまさに原始社会で、社会が極めて高度な発展を遂げない限り、真の男女平等とはほど遠い。幸いなことに、いまの若い男は徐々に覇気が無くなってきているし、男女のユニセックス化(ノンバイナリー)が進んできている。これは男女平等社会への過渡期だからだろう。真の男女平等社会では、体型的にも男と女の区別が付かなくなる可能性はある(その正否はまた別の問題だ)。当然その社会には暴力が無く、階級闘争もなく、戦争も無く、マッチョマンは必要とされない。「平和」は男女平等の大前提なのだ。


 人間は徒党を組む動物だ。徒党を組む動物の場合、ケンカに強い奴がボスになり、そいつはハーレムを作ったりする。ニホンザルもチンパンジーもそうなら、サル仲間の人間だって、昔から力の強い奴が女に持てたに違いない。そいつは集団のリーダーになり、国の王様になってハーレムを作った。ルイ15世しかり、どこかの産油国の王様しかりだ。いまの醜男たちも、女に持てたいがために一生懸命働いて金を稼ぎ、女たちは少しでも美しく見せようと化粧に余念がなく、宝石や服飾品で飾り立てる。そうして男や女の欲望で経済は回り、国は豊かになりつつも、一向に男女平等は実現しない。当たり前の話だ。男は男の感性であり続け、女は女の感性であり続ける限り、男と女の溝は埋まらず、中和液に溶け込むことはできない。真の男女平等社会を創るために、「男は稼ぐことを止め、女は化粧を止めよ!」と僕が叫んだとすれば、僕はたちまち総スカンを食らうだろうが、僕が権威主義国のボスだったなら、君たちは従わざるをえないだろう。


 金が力なら、僕は僕以上の金持ちを作らせたくないし、金持ちにデカい面をさせたくないし、ファッションや宝石、奢侈品の流入で、僕の創った国家体制を崩したくない。金持ちどもは権力者となって、いずれは僕と張り合うことになるだろう。僕は男女平等、人類平等、人類運命共同体を叫んで、行き過ぎた自由主義、行き過ぎた資本主義から我が国を、さらには世界を守らなければならない。ならばまずは我が祖国から、国家統制経済を実施し、人民の飽くなき欲望を武力で制御し、和服の復権を推奨し、奢侈に溺れる我が国のソドム化を阻止しなければならないのだ。その手始めとして、僕は教祖的存在にならなければならない(例え話です)。


 それでは、なぜ僕が教祖にならなければならないのか。それは教祖が神の代理人であり、神は全知全能だからだ。知恵を授かった人間は、古代から自分が全知全能になることを憧れながら生きてきた。なぜなら人は五感を通して、世の中の表層のみを把握して生きてきたからだ。人は物の内面を捉えることはできない。同じく他人の衣服の中も、女房の心の中も理解できない。竜巻の渦も、ガラガラ蛇の威嚇音も、ひどい目に遭った経験や知識がなければ分からない。向こうから大男がやって来ても、そいつが悪者か善人か、武器を隠しているかの見分けも付かない。オセロは妻の愛が分からずに、嫉妬心から殺した。要するに、人は物事の表層しか分からずに、自分勝手にイメージして生きているに過ぎないのだ。それはゴクラクチョウのメスが、オスのダンスを見ながら相手の本質をイメージする状態に近いだろう。全ては表象の世界、象徴の世界、イメージの世界で僕たちは生きているのだ。そしてそれは「猛烈なる不安」を湧き起こす。


 人間は一生、不安の中で生きなければならない。その不安を解消するため、家族を創り、仲間を創り、群を成し、その群を導くリーダーを選ぶ。不安に駆られた人間どもは、そのリーダーにすがることになる。するとそのリーダーは彼らの不安を解消する対価として「命令」という権力を持つことになる。どんな小さな権力でも、周りの者が付き従い、幾分かの富が集中するという役得も得られ、裕福になる。リーダーは誇大妄想的な性格で、知ったか振りをしても、民衆を安心させることができる。すると、同じ性格のリーダー候補が複数現れて、その地位を狙い始め、権力闘争が起こることになる。そのときリーダーは身近の巫女を取り込むか、自身が教祖になるかして、全知全能の神を引き出してくる。


 神が偉大なのは、全知全能だからだ。ソクラテスの「無知の知」とは、「人間は全てをイメージでしか捉えられない(と知ること)」を真の知と言っているだけの話だ。しかし、いまになっても人々はそれを知らない。人間は生まれてから死ぬまで、何も知り得ない運命にあることが分からず、それに不安を感じるあまり、多くの人々が全知全能の神に帰依することになる。そして各自が神から全知全能を授かったと誤解して大枚を教祖に支払い、知った振りをし始める。それで人々の不安が解消すれば結構じゃないかとお思いの方、それは違います。長年にわたるキリスト教徒、イスラム教徒、ユダヤ教徒の血で血を洗う戦いを見れば分かるでしょう。全知全能の神など、単なるイメージに過ぎないのです。賢者の知恵だって、単なるイメージに過ぎません。神がイメージなら、当然のこと民族もイメージです。そして神や民族の間で戦いが続く限り、真の男女平等社会は実現しないのです。


 それじゃあペシミスティック過ぎるとおっしゃるなら、少々言葉を変えましょう。心・技・体の最初に来る言葉は「心」だ。最初に心があってこそ、技も磨かれ体も造られる。そして現実を動かすのは技と体だ。全知全能のユダヤの神が、その土地はユダヤのものだと主張すれば、それはユダヤの土地だし、全知全能のイスラムの神が、その土地はイスラムのものだと主張すれば、それはイスラムの土地だ。イスラエル人とパレスチナ人の戦いは、お互いに譲らない神と神、民族と民族の戦いでもある。神が人々の心から生まれた「全知全能」というイメージなら、この戦争はイメージで脚色された悲惨な現実だ。戦いで死んだ人間は神の許に昇るんだと脚色されていれば、死ぬのも怖くない。しかし結局は、技と体で勝る側が勝者となる。それが現実なら、フェミニズムだってその基盤が平和であるとすれば、混乱する世界の中でフェミニストたちは平和の神エイレネを全知全能と信じて、戦い続けなければならないだろう。男女平等世界ランキング1位のアイスランドで、いま起きているのは「女性の休日」と名付けられた、更なる平等を求めるストだ。アイスランドですらまだ平等にはなっていないのなら、いわんや125位の日本をや。この星では平和も平等も環境保護も、不屈の「心」を牽引力に、がむしゃらに掴まなければ実現しないのだから……。 





俺の顔には二つの節穴がある
一つの世界からもう一つの世界へ
大きな宇宙から小さな宇宙へ
無数の光がバーゲン会場のように
一方的に我も我もと入り込んでくる
そいつらは俺の脳味噌の中で
天井裏の鼠の運動会みたいに
ガラガラグルグル回り続けているうち
いつの間にか後ろの連中に押し出され
奈落のような暗闇に落ちて消えていく
俺の脳味噌は奴らに翻弄されながら
とうとうこらえ切れずに蓋を閉じると
たちまち二つの世界は分断され
束の間の安らぎを得ることができる
そのとき奴らの残党が執念深く
か細い俺の脳神経にへばり付き
意地の悪い顔つきで、笑いながら
ブランコのように揺すり続けるから
俺はからかわれていると思い込む


偶に俺が鏡の前に立つと
俺の節穴に鏡の俺が光となって入り込み
鏡の俺の節穴に俺が光となって入り込む
そして俺も鏡の俺も二人とも不愉快な気分になる
きっとそれは二人の俺を幸せにしないに違いなく
おれはそそくさと鏡から遠ざかる
おれは昔、多くの節穴の前に立たされたことがある
そのとき多くの節穴の中に俺が光となって入り込み
多くの節穴の持ち主が不気味に笑ったような光が
俺の節穴に戻ってきた
俺はそれ以来、多くの節穴の前に
立つことのないように決めている




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