詩人 響月光のブログ

詩人響月光の詩と小説を紹介します。

エッセー「芸術は爆発だ!」& ショートショート

エッセー
芸術は爆発だ!
~ムリヤリ芸術二元論~


 冬になると野原は枯れた植物の死体で満たされ、人々は寒さで体を縮込ませながら、再び訪れる春のことを思い浮かべる。僕は近くの河原に立って荒涼とした景色を眺めながら、最初に色とりどりの花たちに埋め尽くされた春の河原を思い浮かべ、次に色とりどりの観衆に埋め尽くされた大リーグの開幕試合を思い浮かべる。花は花でも。大谷翔平という花形選手の躍動する姿をイメージしたわけだ。春の花と大谷さんでは、少しばかりニュアンスが違っているが、似ていないこともない。


 春の花は、植物の繁殖を助けてくれる虫たちを招き寄せるための看板そのもので、そこにあるのは虫たちに気付いてもらうという受動的な美しさだ。おそらく虫と同じ感性の人間は虫と同じようにそれに引かれ、強引に手折って家に持ち帰り、新鮮な花の死体を床の間に飾る。しかし花は虫とのコミュニケーションのために用意されたもので、それを食べる動物ともども、死体を愛でる人間は迷惑至極な存在だろう。植物は花粉の運搬屋である虫たちの飛翔エネルギーを取り込むために花という目印を示す。虫たちは蜜という駄賃を吸うのが目的で、花びらを奪う悪事はしない。それは共生関係というお互いの愛情の融合だ。


 一方大谷さんの場合は、誰も客寄せパンダだとは思いたくないだろう。彼は花より弾丸で、体内から表出するパンチ力が多くの人々に芸術的な美しさを感じさせる。大谷さんの場合は、観客とのコミュニケーションではなく、観客に力を示して敬服させる衝撃的な美しさで、対戦チームとそのファンには脅威となる。つまり味方ファンを花と仮定し、大谷さんをミツバチとすれば、ファンの声援は花びらの役割を担い、大谷さんはそれに応える結果で彼らを満足させ、愛の融合が成立する。物理的に弱い力と強い力があるように、美には「愛」を表す女性的な美と「力」を表す男性的な美が存在するわけで、それは外から内への受動的な美と内から外への能動的な美といい替えることもでき、時と場合によってスイッチが変わり、二つの美の間で様々なやり取りが行われる。


 例えば弥生土器と縄文土器を比べるとそれはよく分かる。岡本太郎は縄文土器の力の美しさに魅了された。若い頃、僕は縄文土器のごてごてした装飾をグロテスクで悪趣味(下品)だと思っていた。反対に弥生土器の飾り気ない簡素な姿に、洗練された印象を抱いた。おそらく「芸術は爆発だ!」と唱える岡本は、縄文土器の美しさの意味を知った最初の芸術家だった。彼は原爆を予測したといわれる『都市の爆発』を描いたシケイロスに同調し、常に感情の爆発を形にしようと思っていた。しかし爆発はエントロピー(無秩序な力)で、絵にするのは難しい。もちろん、抽象は具象よりも爆発のシズル感に適していた。キャンバスという有限の二次元空間で、その制限ぎりぎりのところまで爆発を表現したのが彼の絵画群なのだ。


 フロイトは、人間の欲動には破壊(殺害)しようとする「死の欲動(破壊衝動)」と保持(統一)しようとする「生の欲動(愛の衝動)」の二つの欲動があり、その絡み合いで生きていくと述べた。本来的に、死の欲動は自分を守る本能で、生の欲動は他者を愛し(受け入れ)安定した環境で増殖を続ける本能だ。言い換えると、破壊衝動は自分の身を守るために他者を毀損する衝動で、内から外への感情爆発だ。それがにっちもさっちも行かなくなると、この衝動は自分に向けられて自傷に導く。また、社会内存在の人間は自分を守るために、社会という檻を打ち破ろうとする足掻きを感じることも多く、これが内から外へのエネルギーになって、罠に捕らわれた熊みたいに大暴れするケースもある。


 愛の衝動は外の感情を内へ取り込んで溶け合う他者との融合だ。これは性愛はもちろん集団生活を営む群に必要な集団愛の本能だ。集団は安定した環境を作るために、外から内へ他者の感情エネルギーを取り込みながら、内から外への感情エネルギーと融合させ、互いに安定した関係を築き上げる。それが失敗した場合は内輪揉めとなり、集団は分裂する。いま騒がれている自民党派閥も、いずれ分裂するに違いない。そう考えると縄文土器は、縄文人の内から外への芸術的衝動を形にしたもので、弥生土器は弥生人の外から内への芸術的融合を形にしたものといえるだろう。


 野山を駆け巡る縄文人は狩を行い、常に動物との戦い、他者との縄張り争いに明け暮れていた。戦いに必要なものは、欲望や怒りなどの体内から体外に発散するパワフルなエネルギーだ。そしてそのエネルギーは日々持続させなければならない。それは阿修羅のような内から激しくほとばしり出る炎だ。縄文人は自分の心身そのものを、男性的な土器に投射したといっても過言ではないだろう。縄文土器は煮えたぎる破壊衝動を昇華したものだ。おそらくこの土器を最初にデザインしたのは男だったに違いない。


 一方弥生時代には農耕も盛んになり、人々には共同作業による協調の精神が求められるようになった。人々は激しさから温和への転換が求められ、棘もなく円やかな女性的スタイルの土器が作られるようになった。この土器は他者との愛の融合、妥協や統一を昇華したものだ。おそらくこの土器を最初にデザインしたのは女だったに違いない。


 そしてこの縄文土器と弥生土器を芸術として考えると、創作エネルギーのベクトルが内から外への芸術と、外から内への芸術として捉えることができるだろう。内から外への芸術的感性は、破壊的要素を伴っている。反対に、外から内への芸術的感性は統一(調和・融合)的感性を伴っている。例えば美術でそれを考えると、ギリシア彫刻は神々の美しさや激しい物語を写実という統一性で表現した。だから生身の人間から石膏型をとって粘土で原型を作り、ブロンズ像に仕立てあげたりしたわけだ。神々の内から外への縦横無尽なエネルギーに憧れ、その波乱万丈な物語を題材としながらも、表現上では外から内への写実として融合して整える手法は、イタリアのルネッサンス期に解剖学的に研究され、絵画においては透視法などによる奥行・立体表現も加わり、さらに視覚的なリアリティが高まった。彫刻においても、ミケランジェロの『ダビデ』は、若者の内から外へ漲る若々しいエネルギーと、制作者の静的な目線という外から内への写実的融合におけるぎりぎりのバランスで、最高の美を形にしている。


 この内なるエネルギーを見えたままに捉え描く写実技法は連綿と、芸術の都パリで200年も王立絵画彫刻アカデミーに受け継がれてきたわけだが、歴史画を最高とする写実的規制が厳格で、それに反発する画家たちが印象派革命などを起こして写実のくびきから逃げ出し、自由な表現で描き始めたわけだ。この革命はまさに内から外へのエネルギーの爆発で、写実という従来美術の殻は脆くも砕け散った。岡本太郎が「芸術は爆発だ!」というのは、常に新しい芸術は、内から外へのエネルギーで爆発的に既成概念を壊しながら飛び出すことを伝えたものだ。  


 例えば炎の画家ゴッホの激しい風景画は、外界の景色を取り入れた外から内への表現ではなく、自分の魂を内から外へ、目の前の風景に激しく投射したプロジェクションマッピングと見ればいいだろう。ピカソの『ゲルニカ』だって、ゲルニカの惨状を表現したというよりか、自分の心の激しい怒りを爆発させ、キャンバス上に投射させた作品なのだ。それは広島で原爆が破裂し、石段に座っていた人の影だけが石に刷り込まれたようなものだ。これはあまりに悪趣味な比喩だが、火薬が爆弾容器の中で好機をうかがっているように、既成概念を壊す前夜の精神は、狭い頭蓋骨の中で爆発を予感している。芸術作品の進化(展開)が既成概念(社会通念)の破壊から始まるのなら、それはフロイト的に死の欲動(破壊衝動)であることは間違いない。フロイトが「死の欲動がある限り、戦争はなくならない」と予言したように、芸術の革命的展開もなくなることはない。


 この破壊衝動は、もちろん全ての芸術分野に当てはまるものだ。茶道は村田珠光の「わび茶」を千利休が発展させていまに伝えたが、その伝統を忠実に守る表千家と時代に合わせた風潮を積極的に取り入れる裏千家に分裂した。作法という外から内への融和に重きを置く表千家に対し、いままでの作法を覆す裏千家の行動は、内から外への破壊衝動だといっていいだろう。大きな集団が分裂するときは、従来の枠組みから飛び出ようとする内から外への破壊衝動がムーブメントの源になる。


 音楽の分野でも、西洋音楽の歴史は破壊と創造の繰り返しだった。ストラビンスキーは音楽理論という外から内へのハーモニー的締め付けの中に留まりながらも、内から外への爆発を表現した『春の祭典』という異色のバレー曲を作曲した。これは荒野の芽吹き、蕾の膨らみから、開花、百花繚乱への移り変わりを独特の和音とリズムで表現したバッカス的な激しい音楽だ。シェーンベルクは従来の音楽理論(調性音楽)を根底から破壊する無調整音楽(十二音技法)で『モーゼとアロン』という革新的なオペラを作曲し、その流れは現代音楽に受け継がれた。シェーンベルクは学究肌の作曲家で、彼の内から外への爆発は音楽理論そのものを破壊する革命だった。


 芸術の分野で「革命」という言葉が大袈裟なら、「ブーム」という言葉に置き換えてもいいだろう。一つの理念なり技法がブームによって主流になると、既存の技法や異なる技法が傍流となる。既存の技法はそれなりの固定ファンによって延命し、次なるブームは傍流である異なる技法か新しい技法が躍り出ることによって芸術史も変遷していく。そんなとき、既存の技法に固執している芸術家は不安に駆られる。「自分の作品は時代遅れなのではないか……」。現にシェーンベルクと同時代の作曲家であるチレアは、時代の流れに不安を感じながらも『アドリアーナ・ルクブルール』という従来的手法のオペラを作曲した。この作品は現在でも高く評価され、『モーゼとアロン』の演奏回数を大きく上回っている。要は優れた作品は時代の変遷にかかわらず評価されるということだ。もちろん『モーゼとアロン』も名作中の名作だが、いかんせん現代音楽の大衆的人気のなさが原因なのだろう。興行収益の問題というわけだ。金と暇のある熟年男女が好むのはチレア以前のイタリアオペラで、それにも歌舞伎十八番のような演目があり(『トスカ』『椿姫』『ルチア』等)、高額なチケットを払って異なる声楽家の同じ演目を繰り返し観ており、常に満席状態を維持している。欧米歌劇場の来日公演では、十八蕃以外の作品を取り上げることは少ない。大所帯の海外遠征では赤字公演は許されず、それが確実に儲ける手段なのだ。


 客受けの良いオペラの中でも、特に19世紀以降に人気を博したベルカント・オペラでは、その中のアリアも抒情的なカンタービレ部分と速いテンポの激しいカバレッタ部分に分けられ、カンタービレ部分では恋する人との愛の融合を願い(外から内)、カバレッタ部分では愛の成就の障壁となる恋敵や様々な困難を乗り越えようとする激しい感情(内から外)が吐露される。そして喜劇は最後に結ばれてハッピーエンド、悲劇では恋は叶わず、両方かどちらかが死ぬことになるわけだ。


 それでは建築という芸術はどうだろう。平安時代からの寝殿造は、貴族たちの宴会や儀式に適応させたもので、訪問客の視線という外から内へのエネルギーを意識して反映させ、豪華に造られたものだった。これは自身の権勢を建築物で示すことで、自分の立場を世間的に確立し、他者との融和を図ったものだ。その意図に相当する芸術は、西洋ではベルサイユ宮殿、日本ではほかに秀吉のポータブルな「黄金茶室」が上げられるだろう。ベルサイユ宮殿は、ルイ14世が権勢を誇示し、訪問した貴族たちの視線を通して「反抗しても叶わない」と思わせ、反抗心を懐柔させるために建てられた建築物だ。同じく農民出身の秀吉は、諸侯から見下されないために、絢爛豪華な茶室でもてなすことによって主従関係を示し、融和を図った。彼らが望むのは、支配する天下を安定化させるための他者強豪との融和だった。しかし秀吉のように外から内へのエネルギーを気にしていた支配者たちも、有事になれば一転して内から外へのエネルギーを爆発させ、生き残るか滅びるかの戦いを展開することになる。


 オシャレやモードも同じことがいえるだろう。有名デザイナーは権力者としての地位を確立し、奇をてらったデザインでファッションショーを開催し、内から外へのエネルギーを誇示することで新しい風を起こそうとする。ファンたちがそれに乗って広めれば、彼の作風に馴染めなかった人たちもそれが流行だと思い、買い始める。消費者は世間体という外から内へのエネルギーに同調して流行を追い始め、伝染病のように世界中に広まり、一年後には細いパンツがダブダブのパンツになったりする。金もないのに高額なブランド品を買うのは、それが金持ちのステータスであるという共通意識を利用し、社会における自分のポジションを外から内への視線によって高めようとする欲求だ。


 外から内へのエネルギーは世間の常識といい換えることもでき、自分が社会からどう見られるかという常識との融和感情は、平和な社会における他者との同調から生じるものだ。これが戦時になればとたんに内から外への爆発的なエネルギーに転換してしまう。他者を取り込む外から内へのエネルギー(愛の衝動)は、他者を毀損する内から外へのエネルギー(破壊衝動)に豹変する。そしてその破壊衝動が群となって同調すると、侵略が開始される。「ブランド」という共通の価値観が、「侵略」という共通の価値観に転化しただけの話で、多数者の共通意識はその時代の常識として、終戦とともに日本人の感性を逆転させた。右へ倣えの戦時中に兵役拒否をすればひんしゅくを買い、正装晩餐会に普段着で出ればひんしゅくを買う。しかしそれは、世間の常識を覆す破壊衝動で、芸術の分野では変革者たちが繰り返し実行してきたことなのだ。小澤征爾氏を嚆矢として、演奏家も燕尾服を着ることは少なくなった。しかし彼は、ミラノスカラ座での公演ではそれができなかった。既成概念を打ち破ることは、それほど簡単なことではない。


 この破壊衝動という内から外へのエネルギー移行が爆発的な革新芸術を生み出し、愛の衝動という世間(社会通念)を気にした外から内へのエネルギー移行がゴージャスな装飾芸術を生み出すとすれば、その情念を観念でコントロールした場合はどのような芸術が生まれるだろうか。例えば禅宗における座禅は、外(世間)との向き合いを断って内(自分)との向き合いを満たした時間だ。このとき心は自分の心から離れて、客観的な空間(おそらく神的な位置)から自分を見下ろすことになる。すると内部から外部への爆発的なエネルギーも、外から内への融合的なエネルギーも雲散霧消して、その心はエネルギーを必要とする身体から離脱し、浮遊状態になる。それは日常のあらゆる関係性を断った「無」という言葉が相応しい状態だ。無の心は生きてもいないし、死んでもいない心の状態を指す。生が+で死が-とすれば、±の状態といっていいだろう。


 戦いに明け暮れる武士は常に死と向き合い、死への恐れを抱いている。この心の乱れは生に執着するからで、そこから回避する唯一の方法が、死んでも生きてもいない状態としての無の心を保ち続けることなのだ。そうした武士の心の住家として「書院造」という簡素な建築様式が生まれたのだと思う。侘び寂びの茶室も、同じような考えに基づいて考案されたものだ。「侘び」という質素さは、内から外、外から内へのエネルギーを極力少なくして「無」に近付け、エネルギーの出入りで生じる摩擦としての雑念をなくす意味が込められている。また「寂び」も、古くなって寂びれた物は「侘び」と同じように徐々にエネルギーを失くして「無」に近付いていく効果がある。こうした環境の中で茶を立てることによって、人は座禅と同じ無の境地に入ることができる。武士が出陣の前に茶を立てるのも、体はエネルギーに漲っていても、心は常に冷静でなければ勝てないからだ。その冷静な心とは、簡素な屋敷の中で培った平常心、感情というエネルギーのくびきから解放された無の神的境地だ。現在でも多くのスポーツ選手が、そんなモードに入ってゼウスのごとく立廻り、勝利している。


 しかし結果として芸術は百花繚乱、どんな形の作品であれ、評価の高低にかかわらず、芸術家の想念と趣向によって作品を創れば良しだろう。それが岡本太郎的な内から外への動的爆発だろうと、東郷青児的な外から内への静的ハーモニーだろうと、観る者の感性を多いに刺激すれば芸術としての役割は果たしたことになる。文学においても、この内から外、外から内への表現は見ることができる。例えば初期の芸術である万葉集は、歌読みの心の底からほとばしり出るような、内から外へのエネルギーを感じさせる純朴な歌が多い。一方、新古今和歌集では定家の「余情妖艶」に則し、上手い下手、粋な言い回しなどといった周囲の評価を気にしたような華やかな技巧が駆使され、外から内へのエネルギーを感じさせる歌が多い。


 詩人の小熊秀雄(1901~1940年)は『ウラルの狼の直系として』という詩の中で自由詩を謳歌し、規則や韻律にこだわる定型詩(俳句や和歌など)を間接的に批判している。「~真実を語るといふことに技術がいるなどとはなんといふ首をくくつてしまふに値する程の不自由な悲しさだらう、すばらしいことは近来人間たちがどうやら苦しみと喜びの実感を歌ひだしたことだ、悪魔は腹を抱へて笑つてゐる日本の詩人もどうやら地獄に堕ちる資格ができたーーと~」(抜粋)


 定型詩は絵画でいうと、ロマン派や印象派が反発したフランス王立絵画彫刻アカデミーの規定のようなものだろう。まず順位は①歴史画②肖像画③風俗画④風景画⑤静物画となり、手法も「正確無比な線を重視して描くこと」「落ち着いた配色を目指すこと」といった評価基準で、『サロン』という王室主催の展覧会への出展が決まる。定型詩も、決められた規則の中で言葉のセンスやニュアンス、余情などを競う「歌会」という人の評価を気にした外から内へのエネルギーによる遊びの要素が高い芸術だ。内から外へのエネルギーの爆発は、苦しみと喜びの実感がそうした殻からはみ出して初めて得られる感動には違いない。しかし岡本太郎の爆発は、キャンバスという決められた規則を打ち破ることはできなかった。当然、巨大な壁画でも同じような制約はあるだろう。制限のない爆発は、原爆のように世の中に破壊だけを残す。芸術は、際限のない無秩序を許すことはしない。枠組みは必ず存在するのだ。


 定型詩にも彼のような天才がいるとすれば、その制約の中での表現が、受け取る側の心の中で無限に広がることができるものにちがいない。優れた作品はすべて、内から外への爆発が鮮烈な光として外から内へと鑑賞者の脳味噌に入り込み、感動という激震を伴いながら制約なく広がったものに違いないからだ。要するにどんな代物であろうが、受け入れる側の心の中で際限なく広がることが芸術としての価値なのだ。ならば黒澤明監督の『夢』の中で、寺尾聰氏がゴッホの麦畑の中に入って遊んだように、仮想現実空間の中で爆発のスピードに乗って無限に飛ばされていくスリリングな感覚が、新たな芸術体験として認められる時代が来るのかもしれない。そんな爆発が芸術なのか遊びなのかは分からないが、そもそも芸術と遊びの違いも僕には分からない。要は、どれだけ心を動かしたかの問題だ。




ショートショート
ちょっと変わったコンシェルジュ


 後藤は共同墓地のコンシェルジュに応募した。勤務時間は午後五時から夜八時までの三時間で、閉園後の仕事だった。「警備員のような仕事ですかね」と面接担当に尋ねると、彼は首を横に振る。「ここに入っている五千人の霊たちの心を癒す仕事さ」「しかし、僕は牧師でも坊さんでもないし、お経も読めません」「そんなものは必要ない。君は介護施設で働いていたんだろ?」「ええ……」「なら簡単にできる仕事さ。引き受けてくれるなら、さっそく仕事場を案内しよう」といって、面接担当は立ち上がった。いやに急かせるなとは思ったが、慌てていたので「ありがとうございます」と応えてしまった。


 墓地は古墳時代の前方後円墳を模した丘になっていた。この丘の至る所に五千人の骨が埋められている。犬などが入らないように高い柵で囲まれ、前方側に大きなゲートはあるが、重厚な天国の扉は閉まっていた。面接担当は「ここはお骨が入るとき以外は開けない」と呟いて横の小扉を開け、後藤を招き入れた。目の前に横長の香炉台が置かれ、上には雨除けの長い屋根があった。閉園直前に焚かれた線香の臭いが、後藤の鼻を突いた。長い御影石の上にはいくつもの香炉が置かれ、その周りは灰で汚れている。担当は短い人差指で灰をすくい、「こいつは掃除人の仕事で、君の仕事ではない」というと、さっそく高齢の女が同じ小扉からヒョンと現れて、そそくさと掃除を開始した。まるで早く家に帰りたいなといった感じの荒っぽい仕事だ。


 面接担当は指の灰を落とすこともなく、「君の仕事場はあちらとあちらだ」といって香炉台の両側にある小さなキューブの建物を交互に指差した。建物も香炉台と同じ暗い御影石でできており、前面に小さな出入口があった。担当が急に「さっちゃん!」と大声を張り上げると、左側の建物の中から制服を着た若い綺麗な女性が現れたので後藤は一瞬驚き、心の中で「いい女だ」と呟いた。担当は「さっちゃん、後はお願いします」といってから後藤を振り返り、「明日はマイナカードを持って一時間前に来てください。普段着で構いません。明日契約します」と告げて、そそくさ事務所に戻っていった。彼も早く帰りたかったに違いない。


 建物の前には「交霊室A」と書かれた案内板が置かれていた。さっちゃんはにこやかに微笑んで、「小林です、よろしくお願いいたします」と頭を下げた。「僕のために残業、申し訳ございません」というとさっちゃんは手を横に振り、「とんでもございません。あなたが来られるまで一カ月も掛け持ちしてたんですから、感謝するのはこっちのほうです」と返した。「ところで、僕の仕事が分かっておりません」「いまからご説明しますわ。まずは、お部屋に入りましょう」


 交霊室は二十畳ほどの部屋で入口以外は窓がなく、照明も薄暗かった。入口と反対側の壁は全面が半透明のスクリーンになっていて、左右の壁は外壁と同じ御影石だ。スクリーンの手前は一段高い十畳ほどのステージになっている。客席側には赤い絨毯の上にスチール製の椅子が五脚無造作に並べられ、他の椅子は右の壁際に十脚ほど積み重なっていた。後藤はさっちゃんに促され、真ん中の椅子に座ると、さっちゃんは隣の隣に座った。


「まず、私は昼のコンシェルジュ、あなたは夜のコンシェルジュです。昼のコンシェルジュは二人いて、夜のコンシェルジュは一人、つまりあなた一人です。私は交霊室Aのコンシェルジュ、あなたは交霊室AとBのコンシェルジュですが、行ったり来たりする必要はございません。昼と夜ではコンシェルジュの仕事内容が違うから、どちらかでやればいいんです。私はご遺族などご来園のお客様の対応をしますが、あなたの時間には、お客様はいらっしゃいません」「じゃあ僕は、なんでコンシェルジュなんですか?」と後藤は単純な質問をした。「あなたは、共同墓地に住まわれる霊の方々に対応していただくコンシェルジュです」 後藤は意味が分からず、口をポカンと開けて、薄暗い光の中で輝いているさっちゃんの顔を覗き込むように見つめた。「あっ、そうそうコンシェルジュにはもう一人いました。私よりも詳しいコンシェルジュをお呼びしましょう」といって、さっちゃんは大きな声で「天使さ~ん、お願いします!」とスクリーンに向かって声を掛けた。


 するとスクリーンが急に明るくなって朝日輝く金色の空が映し出され、金色に染まった雲間から金色の天使が現れ、スクリーンから舞台上に飛び出してきたので、後藤はビックリして声も出なかった。「二人の話は聞いてたよ。僕は霊の方々に付き添って登場する天使の一人さ。どうやら君を納得させるには、最初から説明が必要だね。ここはVRの世界なんだ。まず、この世界では霊の方々は生きていて、君のようなコンシェルジュを必要とするんだ。要するに、君がどこかの高級マンションに雇われたと思えばいい。英語が苦手でもいいんだ。ここには外国生まれの方々も入居されているけど、日本語を話すからな。しかしまず、そもそも霊とは何ぞやから始めなければならない」


 天使がそこまで話したとき、長引きそうだと思ったのか、さっちゃんはうんざりした顔で急に立ち上がり、「申し訳ございません。家で主人が待っておりますから、後の説明は天使さんにおまかせでよろしいでしょうか」と後藤に許しを請う。後藤は「なんだ結婚してたんだ」と心の中でがっかりしながら、ふっ切れたように「どうぞどうぞ、ありがとうございました」と答えて、そそくさ出ていくさっちゃんの後ろ姿を見送った。


 天使と後藤二人だけになると、天使はさっそく説明を始めた。「僕はホログラムというよりか透過スクリーン方式で動いているんだ。霊の人たちもみんな同じで、墓参の人たちの前に生前の姿で現れる。ここは面会所ってわけさ。この墓苑には調査部門があって、入居者の方々が暮らしていたお宅に伺い、あらゆる情報をいただいて3DCGを制作する。写真や映像、生前録音された話し声、歌った声、留守番電話の声、家族のこと友達のこと、趣味、仕事、だから調査係は警察や検察庁をリタイヤしたプロが多いのさ。もちろん君よりは稼ぎがいい。で、それらの情報をガラクタを含めて生成AIにぶち込むと、うまい具合に加工調整してくれて、家族の人も別人とは思えないくらいの完璧なアバター様ができ上がるんだ。それはどういう意味だか分かる?」「さあ……」「つまり、入居者様は死んではいないということ。生きてるってことさ」「生きている?」「そう、君は老人ホームで働いていたんだろ。そこの入居者は近いところに死があるけど、死んじゃいない。だから君は一生懸命介護していた。彼らの体の中にはまだ心があるからさ。けれど、いったん死んじまうと施設から追い出される。心のない人は物になっちまい、人間として認められないんだ。でも、その心は腐った体から離れて家族の心の中に入り込み、しっかり生きている。その心が時たま『会いたいなあ』って呟くもんだから、みんなお墓参りに来るのさ。でも、相手は骨だし土に埋もれている」「なるほど……」「なら分かるよね。ここは墓地じゃなく、入居施設だってこと。ここに来られるご家族やご友人の方々は、お骨や墓石に会いたいわけじゃない。死んじまった人に会いに来るわけじゃないんだ。もちろん、思い出に浸るためでもない。皆さん入居施設にお見舞いに来る感覚で、生きた人に会うためにやって来られるのさ」といって、天使は腕を組んで羽を広げ、二度ほど頷いた。


「その見舞客のお世話が、さっちゃんの仕事ですね。で、僕は?」「だからさ、君は入居者様のお世話が仕事なんだ。いいかい、アバター様たちには、いろんな情報が入力されている。家族や友人との楽しい思い出だけじゃない。家族や友達とのいやな思い出や、全然面会に来ないとか、貸した金を返してもらいたいなんていう複雑な感情だって入力されているのさ。つまり老人ホームの入居者と変わらないと思ってくれたほうがいい。しかも若くして命を落とされた方々も入居されているし、AIが作った脳味噌はクリアで、痴呆症の方は一人もいらっしゃらないんだ。じゃあどうなる?」 後藤は意味が分からず、「どおなるんでしょうね」と繰り返すだけだった。「君は、老人ホームで話し相手になったことは?」「ありますよ」「なら、それが君の仕事です。当然、入居者様の言動はAIがコントロールしている。家族や友人が訪れても、喜んでばかりいて、生前いいたかったことはいえないんだ。訪問者様にはまた来てもらいたいし、運営側としても交霊券の五千円が欲しい。そうすると入居者様も、いいたいことはいえなくなる。それらの放電できなかったマイナスの情報がバグとなって溜まり過ぎると、故障の原因にもなるんだ。ストレスは定期的に放出する必要があるさ」「つまり僕は、入居者のグチを聞いてやる仕事ということですか」「そういうこと。相手が機械ならメンテナンスかな。入居者様はAIにコントロールされてるっていっても、面会者様には生身の人間だと思ってもらわないと、いずれ飽きられてしまう。できるだけシズル感を出すには、生身の君によるカウンセリングの調整が一番なのさ」「分かりました。要するに前の職場の延長だと思えばいいわけですね」と後藤はいって苦笑いした。前の仕事にうんざりしていたからだ。「じゃあ、実際にどんな仕事か、アバター様に出てきてもらいましょう。まず君は、そこでスクリーンに向かって『天使さ~ん』って僕を呼びつける。すると僕が出てきて、その日のメンテ対象者をご案内します。人数が多いので一回二人から四人登場し、ステージに立ちます。君は座ったまま、相槌を打ちながら約三十分グチを聞いてください。重い悩みを持った方が優先です。一日三十人は無理でしょう。グループ・カウンセリングの要領ですね。そのあと僕の仲間が自動的に入居者様を自室に戻します」


 天使がスクリーンに向かって「天使さ~ん」と叫ぶと、金色の空から二人の天使に導かれて、男と女が浮かび上がり、ステージに飛び出した。一人は弱々しい体つきの老女で、もう一人は後藤と同じぐらいの歳の体格の良い男で、サングラスを掛けていた。老女と手を繋いだ天使が、「驚きましたが、こちらの方はあなたとお知り合いだといっておられます」といった。「たしかに、この人の声だったわ」と老女は主張し、後藤をにらみ付けた。「驚きましたが、こちらの方はあなたとお知り合いだといっておられます」と若い男と手を繋いだ天使が同じ台詞をいうと、サングラスの男はニヤリと笑い右手の親指を立てた。


 後藤が胸騒ぎすると、突然高齢の社員に導かれて、五人の警察官がドヤドヤと部屋の中に入ってきた。警官の一人が腰の手錠を抜いて後藤の手に填めた。社員が後藤の前に仁王立ちし、挨拶する。「はじめまして。ここで調査係をしている元警察官の小尾です。私の趣味は、逃げおおせた犯人のデータを仕事場のAIに保存することなんだ。ステージの女性はオレオレ詐欺で全財産を奪われ、飛び込み自殺をした哀れな女性だ。男性のほうは二人組の強盗が宝石屋を襲ったとき、私が偶々居合わせて撃ち殺してしまった片割れだ。もう一人は宝石をばら撒いて逃げおおせた。二つの事件の有力な証拠はお二方の携帯電話に残っていた音声で、同一犯であることは分かっていた。いま君の声はリアルタイムに録音され、AIによって声紋を照合された。ものの二分とかからなかったさ。そして警察に連絡した。偶然とはいえ、君は不運で私は幸運だった。ステージのお二人に、いうことはないかね」


 後藤は全てを理解し、ステージのアバターを一瞥すると、無言のまま不気味な笑みを浮かべながら、警官に囲まれて天国を後にした。すると昔の相棒からあざ笑ったような声が背中に浴びせられた。「出所したらまた来いや。やんちゃな昔を語り合おうぜ!」


(了)


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