詩人 響月光のブログ

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エッセー「冤罪という名のスケープゴート」& 詩

エッセー
「冤罪」という名のスケープゴート


 先日、NHKの「獄友たちの日々」(再放送)を見て心が痛くなった。再審無罪を勝ち取ったり、仮釈放中に再審を求めている5人の元囚人(凶悪殺人嫌疑で逮捕)の日常を描写したドキュメンタリー作品である。彼らの獄中生活を足すと、合わせて155年になるというのだから、まさに「巌窟王」だ。NHKのドキュメンタリーには数々の名作があるが、ドキュメンタリー部門だけを取っても、「NHKをぶっ潰せ!」なんてわめいている人々の心が分からない。国家権力を忖度するスポンサーをさらに忖度する民放では、鋭いドキュメンタリーを制作することは難しいだろう。事実、国家・社会の権力に批判的なニュース番組司会者の多くが首を撥ねられてきた。おまけにドキュメンタリーで、スポンサーの喜ぶ視聴率が上がるわけはない。ちなみに僕は「NHKをぶっ潰すな!」と叫んで、ちゃんと受信料を払っている。NHKも最右翼的な人が会長になった時期もあったが、彼らは少なくとも最近、国家の下部組織でありながら、報道(放送)の自由を必死に守っている。報道番組は危ない橋を渡らないと良いものはできない。その努力に敬意を表したい。


 明らかに真犯人である証拠が提示された場合を除き、犯人であるかなしかは神のみぞ知る領域だ。神は雲隠れしているから、司法制度の下では代理人たる裁判官(陪審員)が、検察側、弁護側双方から提示された証拠を見比べて、その判断を行う。検察側の証拠が不十分である場合は、「疑わしきは罰せず」という推定無罪が定められている。しかしそれは、あくまで裁判官の判断に任せられているので、客観的に証拠不十分と思われても、彼の裁量で有罪となることもある。つまりこの場合、判決はスポーツの芸術点やコンクールと同類の評価点で決まることになり、それには主観(心証)が含まれる。要するに刑事裁判は、「巌窟王」を決定するコンクールと考えてもいいだろう。そして裁判官の心証に大きく影響するのが自白点というやつだ。捜査官は、他に有力な証拠がない場合は特に、「私がやりました(私の言ったことに間違いありません)」という自白調書(被告人供述調書)を作るために手を替え品を変え、いろんな手練手管で必死に落とそうとする。


 「獄友」の面々も、自白調書が有力な証拠となって有罪の判決が下されたわけだ。昔は捜査官の脅し、暴力などの違法な取り調べで自白する被疑者もおり、証拠捏造などもあったのではないかと疑われている(現在はビデオなどでの取り調べの全面可視化が行われている)。いずれにしても、起訴されれば99.9%が有罪になるというのが日本の刑事裁判で、弁護士にとっても無罪を勝ち取るのは一生に一回あるかないからしい。立件に足る材料がなければ訴訟を起こさないから、この数値になるという話なので、素人の僕はそれに口を挟む度胸はない。しかし検察官や警官が証拠を捏造する事件は過去にあったし、冤罪裁判で勝訴する被告人が存在するのであれば、この99.9%の中に無実の人が含まれている可能性はあるということになる。そうした場合、冤罪者は正義の女神に捧げられたスケープゴート(生贄)ではありえず、むしろ社会秩序に捧げられたスケープゴートとなる。


 スケープゴートは神様の機嫌を取るために供するお供え物だ。古代から現在に至るまで、人類は宗教から離脱できない状態にある。不幸や天災が個人や集団に降りかかるのは、神様がお怒りになっているからだと信じられてきて、それを宥めるためにお供え物は欠かせなかった。そのお供え物が山羊さんというわけだ。けれど喜ぶ神様は実体がない存在だ。それは幻想と言うこともできる。実体のない「幻想」が力を持つことは、それが個々人の生きる糧となり、同時にそれを支配者がツールとして利用できることを意味する。そのとき神様は、支配者を中心とした集団が結束するためのエクトプラズム的な接着剤となる。集団や社会は結束することで力となり、安定的な形を獲得できる。安定の先は平和で、不安定の先は諍い(紛争)だ。だから神様というツールは、メンバーの結束を乱すことのないように、彼らに様々な規約(法律)を押し付ける。同じ信仰(思想)はもちろん、同じ慣習や仕来り、服装などが要求されることになる。そしてこの規約に違反した者は、社会を乱す者として吊し上げを食らう。その違反者は、御し難い者や異教徒なども含まれる。これらの異質分子は、神とその代理人、及び集団に捧げられたスケープゴート的な存在として処分される。


 実体が無いツールとしての神様はゼウスのように変幻自在だ。それは、何でも神様と同じ信仰の対象になり得ることを意味し、同じ信仰のパターンを模倣する。共産主義も民主主義もイスラム主義も習近平思想もプーチン思想も、スポーツにおける監督の作戦も、およそ集団がある限り、それを束ねるリーダーに神様が乗り移り、教祖やヒーロー、現人神に変身して実体化し、「イズム」という形でパワーを発揮することになる。そして共同幻想が発酵すると、現人神は出来上がった秩序体制を盤石にするため、スケープゴートを欲しがるようになる。それらは粛清やリンチなどで現人神に捧げられ、彼は「安泰安心」と胸を撫で下ろす。


 共同幻想が醸成されると、集団は垂直に伸びるピラミッド型の形態に纏まって安定化し、独自の文化を形成し、特徴的な香りを発散する。しかし、その臭いに不満を持つ連中が必ず含まれていて、放置しているとどんどん増え始め、ピュアな香りが次第に混濁臭に変わり、綺麗なピラミッド構造が崩れ始める。だからリーダーは自分の造ったピラミッドを崩さないように、野菜工場と同じ方法で不良部分を徹底的に摘み取り、国家としての品質(権力)を保つようにする。しかし命じられた部下は、必ずしも不良品の検知を的確に行えるわけではなく、時たま不良品でない物まで摘んでしまう。それが「冤罪」というわけで、社会にとって不良品扱いされた人々は、ピラミッド構造を維持するための必要悪として、スケープゴートとなる。


 世の中には大きく3種類のスケープゴートが存在する。一つは文字通り、神に捧げる生贄だ。民族や集団は、自分たちを守ってくれる守護神に貴重な家畜を捧げることで、一族の安全と繁栄を獲得する(と信じる)。捧げられる家畜はいずれ食われる動物だし、儀式の後はみんなで食うのだから、動物愛護団体以外は文句を言わないだろう。例えばアメリカで行われる感謝祭では、毎年1,900万羽の七面鳥が犠牲となり、食卓に並ぶ。これは神に捧げる神聖な儀式が楽しいお祭りに広がった好例だ。現在は人身御供の時代ではないが、日本では人柱という形で明治時代まで行われていた。北海道の常紋トンネル(鉄道)は難工事で、神に捧げる人柱となった人々の慰霊碑がある。親方に反抗的な労働者や弱った労働者などが殺されてスケープゴートとなった。これらの人々は東京で勧誘・拉致されて北海道に渡り、「タコ部屋」と言われる監禁小屋に入れられた被害者だ。


 もう一つは、権威主義的な政府が政敵を処刑や監禁したりする場合に生じる哀れな犠牲者だ。この場合のスケープゴートは、権力の維持と安寧を願って政権に供されるため、政権に睨まれたらたとえ反抗の意図はなくても、少しの疑いで芽かき(剪定)のように摘み取られていく。いまの権威主義国家で起こっていることはこれに該当するだろう。最後のスケープゴートは、社会の安寧を保つために、あるいは安全安心な社会を育むために供される哀れな犠牲者だ。安心社会の理想は、犯罪者の全員逮捕にあるとすれば、これが冤罪の要因となる。いったん社会が崩壊し始めると、中南米のどこかの国のように刑務所が乗っ取られるまでに荒廃していく。おまけにその途上にある国はかなりの数になる。例えば以前のカリフォルニア州では財産価値が400ドル以下の万引きでも収監されていたが、現在は950ドルを越えない万引きや窃盗はお目こぼしされている。治安悪化で刑務所が満杯状態になっているのだという。住人も少しは安全なテキサス州やフロリダ州などに移住する人が増えているらしい。犯罪が増えたのは、貧富の差の拡大による貧困が最大の原因だ。これがアメリカという民主主義国家の実態で、権威主義国家だけが問題を孕んでいると考えたら大間違いだ。


 こう見ると、スケープゴートはどれも安寧な秩序を維持するために供された犠牲者だと言うことができるだろう。享受する側は、「神」、「政府及びその支持権力」、「市民及び国民」と三様だが、神は実体が無いので二様となる。民主主義国家の場合、「冤罪」がスケープゴートだとすれば、それを享受しているのは統治機関だけでなく、我々市民・国民ということになるだろう。つまり国民は、冤罪事件に憤慨する傍らで、検察から供されたスケープゴートのエクトプラズムを吸って安心しているというわけだ。そう考えると「冤罪事件」は、無実の罪に陥れた司法を揶揄するだけでなく、自分自身の胸に手を当てて冷静に考えなければならないものだということが分かってくる。凶悪事件が起こると市民は恐れ慄き、ホシが挙がることを願い、過度に期待する。なかなか上がらなければ、過度に怯えて文句を言い、警察を揶揄・愚弄する。捜査官も市民感情に応えようと頑張るが、難事件も少なくない。そうした社会的雰囲気の中で奮闘する捜査陣も、市民の期待が高いほど、挙げられないことが自分たちの沽券に関わることのようになってきて、冤罪の土壌が出来上がる。上司からは「絶対に上げろ!」と発破が掛かる。そこから無実の者が吊り上げられて起訴されれば、後は裁判官の吟味ということになる。そして裁判官が検察寄りの権威主義者ならば、司法の尊厳が脳裏を過ぎり、無実の者が有罪となる可能性が出てくる。


 さて、これらの悪循環を断ち切るには二つの方法があると思える。一つはいまの中国を見習って、様々なハイテクを駆使しながら完璧な「監視社会」を築き上げることだ。中国では監視カメラが過密に設置されていて、国民一人ひとりの個人情報も政府に把握され、「天網恢恢疎にして漏らさず」状態になりつつある。当然「天」は中国共産党だ。反乱分子はたちどころに検挙され、ついでに犯罪検挙率も大幅に上がっている。政府が故意的に冤罪を作っているとすれば、それはまた別の話になるが、少なくとも屋外での犯行の一部始終はビデオに収められ、顔認識や動作認識から犯人を特定することができる。神のみぞ知る部分をテクニカルに狭めていくことが可能になったのだ。これで冤罪は激しく減少するに違いない。そしてこれが理想の社会①だ。


 もう一つは、幼少期から「個人の尊厳が常に個人の自尊心の上にあらねばならない」という民主主義思想を、教育機関で徹底的に植え付けることだ。民主主義にとって、「尊厳」は人類にあまねく与えられた共通項で、侵してはならないものだが、「自尊心」はあくまで個々人が抱く個的感情だ。個人は自分の自尊心を満足させるために、他人の尊厳を侵してはならないのが鉄則だ。生まれつき自尊心の高い人間に対しては、高濃度な民主主義教育を施さなければならないだろう。(自尊心は人間を頑固にさせる元凶で、皆さんも倒れた石でも立っていると主張するような頑固親爺になってはいけません)


 僕が若い頃は、国の僕たる警察官や国鉄職員、さらには公立教師まで、ひどく頑固で横柄な態度をしていた。悪ガキの僕などは中学生の頃、何度も先生から平手打ちを食らって育った。頬っぺたが焼き餅のように急速に膨れ上がる感触を、懐かしく思い出す。これは戦前の習慣としてのピラミッド的カースト制度が残っていたからで、役人・公職者は民衆よりも上の位置にあるという自尊心を持っていたからだ。戦後急速にアメリカナイズされて、そうした状況も無くなりつつあるし、最近ではダイバーシティなどと叫ばれて、社会のピラミッドは饅頭のようになってきたが、それでもまだ単一民族系の日本は、他よりも殻の硬い民主国家として村社会的要素が濃い状態だ。個人の尊厳は村の尊厳の上に位置し、村を守る村役人の自尊心の上にもあらねばならない。日本がそうした形に逆転しなければ、まだまだ冤罪の土壌はあり続けることになるだろう。それには更なる民主主義教育が必要というわけで、そしてこれが理想の社会②としよう。冤罪を少なくする社会①と②、あなたはどっちをチョイス !?






戦場の母
(戦争レクイエムより)


だいぶ昔のこと
すっかり忘れちまったが
僕は母親の腹の中にいて
柔らかな胎盤の和毛に守られつつ
人生で一番幸福な時を過ごしながら
きっと何かを考えていたにちがいなく
必死にそれを思い出そうとしている


たぶん母親が祈っていた
僕の命のことだったかもしれないし
僕自身がその命を祈っていただろう
へその緒でしっかりと結ばれた
母親という大きなおまけだったかもしれない


そいつはきっと打ち上げロケットのように
僕を広大な虚無空間まで運び上げると
ここぞとばかりに一気に切り離し
僕は驚いて泣き叫びながら
裸のまま手足をバタつかせ
居心地の悪い別世界に着地させられた


嗚呼、なんという裏切りだろう
僕は慣れ親しんだ住家を追われ
仕方なく虚弱な足を奮い立たせ
虚無の大地に始めの一歩を印したのだ


もうだいぶ時が経って
命を弄びながら機銃を抱え
荒廃した大地に足を踏み入れて
慣れ親しんだあの家を覗いてみると
ミサイルで壊された瓦礫の中に
忘れちまった最初の揺籃が
朽ちた姿で転がっていた


嗚呼、どうしちまったんだ
地獄と変わらぬ世界に揉まれて
驚いて泣き叫ぼうにも
僕の涙はすっかり枯れ果て
胎盤の香りに似た腐臭を浴びながら
機械的に母を抱き上げ
目をつむって何回もキスをした
かつて彼女がこの頬に
がむしゃらにやったみたいに…




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