詩人 響月光のブログ

詩人響月光の詩と小説を紹介します。

エッセー「君はAIを夫とするか?」& 詩

エッセー
エッセー君はAIを夫とするか?
~憑依(ひょうい)の未来メカニズム~


 僕は現在病気療養中で、それほど永くは生きられないだろうと考えている。それでも、悲壮感はまったくといっていいほど頭に浮かんでこない。僕が生まれた時代には、「人生50年」と言われていた。いまの僕は、それより20年以上も長生きしていることになる。あの時代の大人から見れば、長老の部類だ。十分生きたと思っている。


 しかし、入院中に同じ不治的な病で苦しむ多くの人を見てきた。その苦しみは大きく二つに分けられた。一つは死期が間近に迫っていて、四六時中激痛に悩まされ、モルヒネを欠かせない人々。これらの人々を見ていると、憐れみを抱くと同時に、僕もいずれはそんな状態になるのだろうと想像し、暗澹たる気持ちになる。それでも、僕が子供の頃に比べれば緩和ケアも大分進歩している。小学生の頃、肺がんで入院している伯父を見舞いに行ったことがあったが、伯父は呼吸が苦しくて座位呼吸をしていた。僕が具合はどうかと聞いても呼吸に忙しくて、答えることは出来なかった。いまにも死にそうな状態なのに変な質問をしたものだが、何かを語り掛けるとしても、そんな質問しか出来なかっただろう。伯父のドロンとした腐った魚のような目を、いまだに記憶している。その病院は有名ながん専門病院だったのに医者も匙を投げ、緩和目的での酸素吸入すら施さない恐ろしい時代だった……。 


 もう一つは、不治の病に罹った若い人たちで、新しい特効薬が発見されなければ若くして人生を終えなければならないという苦しみを抱えていた。こうした人たちに対しては、どんな慰めの言葉も効かないだろう。いかさま宗教家がやって来て天井を指差し、「天国がありますよ」と宣うのを信じるしかない。彼はそこで神の恩寵を感じる。しかし天国というのは、死に行く本人に対しては一時で、後は残された家族に対してあるものなのだ。本人は死への恐怖に苛まれながら、天国があるじゃないかと慰めつつ生と死の臨界点を迎える。そのとき彼は人生を終えて、全てを失う。いまの科学セオリーで言えば、魂も肉体も神も天国という妄想も、全てが灰燼と化す。つまり彼の精神は死を境に消滅するわけだ。そして彼の人生が残した残渣は、彼の家族の心の中に記憶として残り続ける。そのとき家族は想念の中で、彼の住家を天国という架空の場所に移し替える。


 そう考えると、宗教家という連中は、プーチンの核脅しと同じ論理を展開していることになる。南無阿弥陀仏と唱えればお前は救われるよ。だが信心しなければ救われることはない。これは地球上の恐ろしい二項対立の掟で、降伏しなければ全滅だよ、餌を獲得しなければ死ぬよ、仕事をしなければ餌にあり付けないよ、と同じ論理だ。しかし目前の死は独裁者のように、選択の余地なく強引に彼を引き込もうとしている。「治す手段が無ければ死ぬよ」。だから彼は、死の後ろにあるかも知れない天国という非論理的な妄想に想いを馳せる。死という運命の力の前では、祈る以外に方法がなくなるのだ。彼は現実を直視することを避け、妄想の世界に逃避する。もっとも、天国があるかないかは不可知なので、それは仮説のカテゴリーに入れていいだろう。


 もし死に行く彼が無神論者で、仮説として死後の世界なんかないと一笑に付せば、彼は天国という希望を失うことになる。彼は現実主義者で、論理的に証明されないものは信じない。彼は生死の臨界点を越えた後に、一切が無となることを信じていて、恐れを抱くことはないだろう。そこには天国もなければ地獄もなく、無念の心すらないのだから……。ならば、死への助走期間において、恐れる理由もなくなり、過去を振り返って良き思い出の中で楽しむだろう。仮に悪い思い出が蘇ったとしても、もうすぐ全てが無に帰すのだから、そんな思い出に悩まされることもなくなると安堵する。しかし天国を信じる者も、信じない者も、安らかに死を迎えることを前提として、自ら生への執着を断ち切らなければならないことは同じだ。そのとき彼らは、人生の中に蠢く多くの人や物と自分が繋がっていたことを意識する。妻や恋人との繋がり、子供や家族との繋がり、仕事や趣味、友人、仲間、ペット、愛車、趣味、自然等々……、そしてそれらは「愛」という糸で繋がっていて、その糸が太ければ太いほど、幸せを感じていたことを悟るだろう。


 そしてこの糸はまるで歯のように、年齢を重ねていくうちにポロポロ切れていく。両親とは死別し、子供は巣離れし、ペットは死に、仕事も辞め、友人たちも鬼籍入りする。孤独死とは、そうした糸の無くなってしまった人々の死を表現した言葉で、語感として憐れみを誘うが、本人から見ればそうでもないかも知れない。なぜなら、まったく糸がないわけではない。孤独を楽しんでいたかも知れないし、趣味を楽しんでいたかも知れないし、食うことに執着していたかも知れない。人は与えられた環境の中で何とか生きていける。孤独死の人も僕のような高齢者も、生に対してさほどの執着はなくても、何かしらへの執着は残っているに違いない。


 可哀想なのは、若い人は生への執着心が旺盛だということだろう。生と死はコインの裏表で、生きている人は常に死神を背負って動いている。突然車に撥ねられた瞬間に主客はチェンジし、死神がその人を背負うことになる。不治の病で死期を間近に控えた病人には、死神が背中から降りて慎ましく若い彼女の横に寄り添う。それが彼女の視界に入ったとき、嫌いな男が横に密着するように彼女は鳥肌を立てて、恐怖の中で押し退けようとする。しかしそいつは頑強な男で、びくとも動かない。彼女は自分の運命として受け入れなければならないのだ。小一時間前にテレビニュースで、熊が急に現れてピクニックテーブルに乗って全員のランチを平らげ、満腹になって山に戻って行く情景が映し出されていた。横の椅子に座った連中は自分も食われないように微動だにせず、大人しく災禍の通り過ぎるのを待っていた。この熊は死神で、巨大な草刈り鎌の代わりに鋭利な牙と爪を持っていたわけだが、死神とは目的が違っていたし、悲劇を楽しむ趣味も持ち合わせていなかった。死神はメフィストフェレスと同じ類のサディストだ。だから歌劇『椿姫』のように、死の間際に愛する人と再会させ、「不思議だわ……」と彼女に生きるエネルギーと希望を与えた直ぐ後に「やっぱやめた」と取り上げて死に陥れ、人の世の儚さを楽しむわけだ。


 死に至る病は色々あろうが、その終着としての「死」は、事故や殺人も含めてあらゆる災禍の終着点であることには変わらないし、同時に人生の終着点でもあるわけだ。だから秦の始皇帝に限らず、人類は古代から不死の薬を求めてきた。そしていまも医学界で研究が進められている。しかし僕はこの頃、死神が人類の作り話であるのと同じに、「死」もいずれファルス(笑劇)になるだろうと思うようになってきた。話は瞬時に飛んじまうが、例えばいま、米国防省がUFO(UAP)の調査組織を立ち上げたが、本当に宇宙人が地球にやって来ているとすれば、彼らはワームホールのような瞬間移動のできる時空の穴を利用して来たのか、恐ろしく長寿であるかのどちらかに違いない。


 仮に彼らが長寿であったならば、彼らは自然から与えられた生身の体ではないだろう。彼らは我々と違って、何世紀も前にシンギュラリティを迎えた人々なのだ。シンギュラリティには二つの特異点がある。一つはAIが人類の知能を超える転換点(技術的特異点)。もう一つは、AIの権利が人権と等しくなる特異点だ(権利的特異点)。このとき初めてAIと人間の差別的感情は解消し、人類はAIを仲間として受け入れることが出来るようになる。そしてこの権利的特異点以降、人類は死から解放されて永遠の命を獲得することになり、宇宙人の仲間入りを果たす。人間とAIは平等になるのだから、当然結婚することも可能になる。子供を持つこともできる。すでに赤ん坊は人工子宮で育てられ、人類の子宮的アイデンティティは喪失している、LGBTQ++AIの時代到来だ。


 シンギュラリティの最大のメリットは、人間の寿命を失くし、永遠の命を与えることが出来るということなのだ。死に行く彼は、死を迎える一週間前に、脳を含めたあらゆる神経組織をAIに複製させ、性格や感性、性的嗜好を含め、生まれてから死ぬまでの全ての脳内情報を移転させる。そしてそれを若いときの自分にそっくりなアンドロイドに埋め込めば、もう一人の自分が出来上がる。きっと再生した彼は、ベッドに横たわる自分の亡骸を、まるで脱皮した蛇皮のように無感動に見下ろし、清掃ロボットが焼却施設に運んでいくのを見送るだろう。整形手術で美人に変身するのとほとんど同じ気分だ。そして愛する妻や子供、孫たちも、若返った彼に多少は違和感を感じつつ、再生誕生パーティを盛大に開いて祝福してくれるだろう。ひょっとしたら妻だって、どこも悪くないのに早々にロボットに転身し、若い亭主に合わせるかも知れない。「アア、僕も早くロボット君になりた~い!」(この「ジョーク」を死ぬまでお道化ていたマキューシオ氏、及び餌を貰えると思って餓死するまで踊り続けた戦時中の上野動物園の象さんたちに捧げます)。






古里


無数のブヨたちが見渡す限りの湿地から
命をあざ笑う埃のように舞い上がり
乾いた春風の大きな渦に乗じて
身の程知らずの高さまで達したとき
清らかな天空はにわかに掻き曇り
まるで日蝕を恐れる原始人のように
俺は恐れ慄いたのだ


死んだ水草たちが無念の心を絞り出し
腐臭に満ちた体液を蜿蜒と広げ
泥沼の底のどこからかひっそり湧き出す清水を
捕らまえてからかいながら汚していく様は
縁側で殺した鼠を弄ぶ猫のように
残酷な心で満たされていた


崖の穴奥で巣立ちを控えたカワセミたちが
三日後には誰もいなくなってしまい
巣立ちをしたに違いないと喜んだ途端
崖下に散る美しい翼たちを見て
俺は泣き叫びながらがむしゃらに駆け上がり
丘の上から沼たちを見下ろしたのだ
そして平然と佇む鏡のような水面を見たとき
俺はお前の冷酷な本性を理解した


嗚呼、古里
あらゆる獣たちを抱え込み、突き放す自然…
その吐息は拭い去れない血のように
幼くも弱々しい肺臓に忍び込んだのだ
俺はお前に汚された血を回しながら
泥沼の濁り水を全身に送り続け
時たま不整脈を起こしてときめかせる
お前はいまでも俺を支配していて
萎えた身体が朽ちるまで
からかい続けるに違いない
無意味な遊びを繰り返す
あのときの俺を真似て…



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