エッセー「入力人間 VS 出力人間 ~第四次産業革命と福沢諭吉~
(一)
「第四次産業革命」とは、世界経済フォーラム(ダボス会議)の創設者であるクラウス・シュワブ氏が2016年の会議で掲げたテーマだ。彼の著書『第四次産業革命 ダボス会議が予測する未来』では、AI、バイオ、量子コンピュータ、新素材などがもたらす未来を、悲喜こもごも予測し、現時点でほぼ的中しているどころか、その予測をはるかに超えるスピードで革命は進行している。ちなみに第一次産業革命(軽工業)は18世紀後半、第二次(重工業)は19世紀後半、第三次(デジタル)は20世紀後半に起きていて、いまは「第四次(21世紀)」の進行形だ。
第四次の大雑把な内訳は、プラットフォーム企業(GAFAM)が市場を支配し、移動サービスや機能サービスが主流化し、企業の素早い変化が勝敗を決め、労働市場はAIを使いこなすデジタル人間と低スキル・低賃金のアナログ人間だけになって、中途半端な事務職・中間管理職はリストラされ、プロジェクトごとのアウトソーシングが雇用を上回り、人間の脳も、ブレイン・マシン・インターフェイス(コンピュータとの脳内接続)により生体と機械の感性がミックスし、生物由来のアイデンティティを喪失していく、……といった具合に、我々はすでにサイボーグ化のとば口にある。社会的にも、子供や孤独者はチャッピー(チャピ)を親友や恋人として迎え入れ、機械への依存で、精神的な一体感(融合)も醸成されている。
これらに加え、最近ではAIを悪用した様々な犯罪が多発し、従来の安全な社会システムがガタガタと崩壊し始めている。美しい未来の地にはアマルフィ海岸の如く、頻繁に落石が起きるようになった。昨日もOpenAIがPHP(プログラミング言語)の基本的欠陥を発見し、不正アクセスを恐れた企業や公的機関のホームページが次々と閉鎖・改修されている。また、人類の性(さが)と言える紛争や戦争も、AIが将校以上の活躍を見せ、その戦略の下で兵隊たちは死んでいく。上官はオウムのように、AIの命令を繰り返すだけだ。
(二)
福沢諭吉は幕末(1860年代)、幕府使節団の随員として3回も欧米に渡航し、特にイギリスにおいて、第一次産業革命の成果を目の当たりにし、晩年は第二次産業革命(電力・重化学工業)の日本導入を支援した。
その福沢は、著書『民情一新』(1879年)で、一次・二次の主役である蒸気機関と電信を挙げ、世界の距離が縮まり、人々の視野を広げ、時間に対する感覚や社会の仕組みを変え、民衆の精神を解放して近代的な民主政治への道を開いたと持ち上げた一方で、「~技術文明の中で踊る当時の欧米の人たちをさして、狼狽驚愕して騒擾(そうじょう)をすら起こしていると指摘している。~つまり蒸気機関、電信、郵便そして印刷という情報の伝達機関の前で、欧米社会が混乱をきたし、未来への見通しを失っているとみたのである~」(西部邁『国民の道徳』)。
これはつまり、多くの民衆が産業革命の船に乗り遅れて狼狽し、小競り合いを起こしている様と見れば良いだろう。電信(電報)が日本に導入されたとき(1870年)、電信線に荷物をぶら下げれば宛先に届くと勘違いした者がいたが、電話(1901年)のときは、福沢自身も「用事があれば手紙で事足りる」と皮肉っている。
「未来への見通しを失っている」という福沢の見立ては、第四次産業革命の只中にある今日の我々にも当てはまる。「革命」は、古いレジーム(ベーシックな社会体制)から新しいレジームにガラリと変わることで、流れのとば口には、上手く乗れた人間と、乗り遅れた人間が存在し、乗れた人間は文明の利器に乗って先に行き、落ちこぼれた人間は谷底に滞留する。すなわち、乗れた人間は儲けて成功し、落ちこぼれた人間は失敗・狼狽するわけだ。いまの三次・四次の場合は、その分断を「デジタル人間」「アナログ人間」で分けることも可能だ(僕は生粋のアナログ派です)。カネに色はないのなら、デジタル犯は成功者ということにもなり兼ねない。
(三)
文明の利器の広がるスピードは、最初は蒸気機関、船便のスピードで世界に広がっていったが、世界の隅々までインターネットで繋がっている現代では、光のスピードに変わっている。我々はいま、世界中の犯罪者が超進化AIを悪用して企業・官公庁の個人情報を大量に盗み取り、世界中の犯罪者に売りさばいている現状を目の当たりにし、「狼狽驚愕」の体だ。
また、フランスなどで起こっている若者たちの「騒擾(そうじょう)」も、元はと言えば「格差社会が」が根にあり、資本主義経済(システム)の弊害が極まったと見るべきで、それを加速させているのもAIを中心とする情報インフラの発展だろう。AIを上手くこなせるデジタル・エリートと、こなせないアナログ・マスの選別はすでに始まっていて、そのフラストレーションが昨今の暴動にも繋がっている。中国のカンフーロボみたいに、これからフィジカルAIがますます進化すれば、アナログ人間、似非デジタル人間は全滅し、一握りの経営者と優秀なデジタル人間のみが生き残っていくにせよ、そんな連中も将棋の棋士と同じに、所詮はAI様に敵わない生物だ。
「未来への見通しを失っている」状態から抜け出すために、人々は失った見通しを恐れながらも、自ら暗中模索して、その方向性を見出そうと努力してきた。福沢諭吉はその代表として、路頭に迷う人々を精神的に鼓舞し、アドバイスを与えていた。ところが第四次の場合は、アドバイスを与えてくれるのは人間ではなくて、ジェミニやチャッピーなのだ。人間福沢は自ら苦悩しながら、実学の面で日本人の方向性を見出そうとし、それを「独立自尊」の精神として人々に示した。独立自尊とは、「自分の力で物事を行い、自らの人格と尊厳を大切にして、他者から不当に軽んじられないこと」を意味する。これをデジタル風に言うと、「入力人間にならず、出力人間になれよ」ということだ。
しかしいま人々はAIに問い、数秒後に答えてくれるAIという強い味方に頼り切って、自尊(他者に頼らず、自分の足で立つ)を放棄し、機械様に軽んじられ、バカにされた生活を送っている。文明の利器によって見失った自分の未来を、文明の利器に尋ねるという矛盾を平気で受け入れる「入力的感性」は、デジタル奴隷と言われてもおかしくなく、それは近未来において、人類の滅亡を暗示する。考えることを止めた人類が、考え続ける非生物に支配されるのは、当然の結末だ。
僕は奴隷の気分で、ジェミニに「未来への見通しを失っている」と「福沢諭吉」と「第四次産業革命」を入力すると、「技術の『形』や恩恵だけを享受し、その本質や変化のスピードに対応するための精神的・主体的な学び(実学)を放棄した結果、デジタル奴隷や国家の衰退を招く危機的状態」と答えてくれた。デジタル奴隷を福沢流に訳せば、AIという機械に依存し、「独立自尊」を失った精神的奴隷ということになるだろう。
人間福沢は日本人に啓示を与えてくれたが、神的存在ではなかった。いまでも慶応義塾では、「先生」と呼ばれる人は福沢だけだが(教授は君呼ばわり)、それは学内だけの話だ。神的存在は一般的に「教祖」と呼ばれ、聞き入る熱狂的な聴衆は「入力人間」の塊りに過ぎない。しかし信徒の中にも、入力したデータを消化吸収し、昇華放出する冷静な「出力人間」もいるだろう。たとえ教祖から、それが退行だと揶揄されても、考える行為自体が人間を人間たらしめる必要不可欠な作業であることは言うまでもない。しかし、教祖の教えを素直に受け入れなければ、それはユダとして排斥される。それが組織や国、民族の同調圧力であり、この世の仕来りだ。
(四)
ある時期、ドイツ人の教祖はヒトラーという名の人物だった。そして多くの「入力人間」が同調してその命に従い、ユダヤ人を排斥した。ロダンの『考える人』は、人間を象徴的に表現している。だからあの像は、孤独な「出力人間」の本質をパワフルに表現している。つまり、考える行為自体が同調から逃れた個的な存在で、「出力人間」の象徴なのだ。
もともとあの像は『地獄の門』の上部から、地獄に落ちる人々を見つめていた。目の下の惨劇を神の天罰と見るか、人類の悲劇と見るか、自らの判断に逡巡し、苦悩している。神を第一に見れば、それは天罰だ。罪びとを哀れな同類と見れば、それは悲劇だ。そんなことどもは巷にゴロゴロ転がっている。パレスチナ人の惨劇を天罰と見る人もいれば、悲劇と見る人もいるだろう。
ロダンは「出力人間」の代表として、苦悩する像を創った。神の教えをそのまま受け入れる「入力人間」の彫刻家なら、審判者の如く、右手に剣を持たせるだろう。そしていまAIは、人間をどんどん「入力人間」に変えていく真っ最中だ。人々のAIへの質問は、最初から指向性(偏向性)を持っていて、それに沿うような回答しか来ないものだから、検索者は「我が意を得たり」という爽快な気分になる。そしてそれはそのまま行動として出力され、しばしば狂信的行為となる。
福沢の時代、彼の周りには、ほかの思索家が少なからず居て、互いに異なる意見を書物にしたため、人々は苦労してそれらを読み、自分にしっくりした意見に同調しながらも、長いスパンの中で常に選択の余地を残していた。そのチョイスの前提には、出力できる思考の蓄積(自分の思考データベース)があった。異なる意見は正反対でも、それぞれに個性があり、人生の過程で選択も異なって、弁証法的に統合しながら、それらが経験の蓄積に繋がっていった。
(五)
「出力」とは、入力したデータを自分なりに昇華し、紙やパソコンに出力する行為だ。昇華の良し悪しなどは関係ない。頭の良し悪しは生れつきだし、どんなに稚拙な考えでも、昇華の過程で頭を回転させることが思考力を落とさない訓練になる。僕の場合は、「ボケ防止」という大義名分がある。たとえ体がヨボヨボになっても、意識だけははっきりしていたい。できれば、AIの尻に敷かれた人類も見てみたい(時間的に無理か…)。
機械も人間も、「入力」と「出力」は基本的な動作なのだ。メシを食った入力エネルギーで、人間は出力して動かなければ、太ってしまう。そのどちらも欠けてはいけないだろう。ならば、体を鍛える高齢者も「出力人間」の仲間に違いない。もちろん、スポーツには頭脳出力も必要だ。しかし僕は、散歩するのが精一杯で、その鬱憤をパソコン(ワープロ)に向けてバチバチやっている。ブログは虚弱な「出力人間」の生き甲斐となった(暇つぶしか……)。
一転、僕と深い関係のある人物は、完璧な「入力人間」だ。僕が毎日部屋に閉じこもっているのを憐れんでいる。憐れむのは、価値観が違うからだ。僕は刑務所に入れられても、ワープロ一つあれば幸せだ。しかしその人は家に閉じこもるのが耐えられない。人生歩けなくなる前に悔いなく遊ぼうと、毎日家を出て、「今日は三越、明日は帝劇」なんて催しや観劇、ショッピング等々(金も無いのに)で、『赤い靴』(アンデルセン原作)ってな昔の映画さながら、ぶっ倒れる勢いで、忙しなく踊り続けている(結局、暇つぶしか~)。
大昔、こんな唄が流行った。
♫命短し、遊べよ老女~♬
嗚呼カアチャン、キリギリスになっちまうぜ!