詩人 響月光のブログ

詩人響月光の詩と小説を紹介します。

エッセー「捨て去れ、子宮愛!」& 詩

エッセー
捨て去れ、子宮愛!
~子宮思考からAI思考へ~


 安部公房に『赤い繭』という作品がある。家のない男(おれ)が休める自分の家を求めて街中を彷徨うが見つからず、結局自分の足から出てきた糸を手繰って体を減らしながら繭を作り、ようやく家ができたと安堵したものの、そこに入るべき「おれ」は繭になって消えてしまったという話だ。僕は文芸評論家ではないので、GHQの「レッドパージ(赤狩り)」など作品が書かれた時代的背景は無視し、ただ感じたことを書く。当時の作者は共産党員で僕は幼児だったけれど、親の会話に聞き耳を立てていて、共産党という山賊集団が街中を徘徊しているらしく、怖がったことを覚えているが、熱狂的な「アメリカ礼賛」とともに、それが当時の日本では常識だった。そのちょっと前は米軍が山賊だったのだから、日本人というものは何とも不思議な民族だ。


 この男(おれ)が求めていた「休める自分」とは、僕自身の経験から言うと、子供の頃親の買い物に付き合わされ、くたくたになって家に帰ったときのあの安堵感だったかも知れない。それが巣を作る動物に共通の感覚だとすれば、突き詰めれば「安眠する自分」と言い直せるだろう。人間も動物も本当に休めるのは、意識の無い状態以外は考えられない。男が覚醒しているときは排他的社会の中で常に疎外感を味わい、その緊張から解放される唯一の時間が睡眠時間で、それを提供してくれるのが自分のねぐら(家)ということになる。家も繭も隔壁で囲まれ、そこで吸う空気は、世間の空気と隔絶されている。結局繭は世間を象徴する男(彼)に拾われて、その子供の玩具箱に入れられるが、乱暴な子供から守ってくれる繭はあっても、空の繭に男(おれ)は存在しない。男にとって社会は乱暴な子供だが、身を守る存在(防具)はあっても、守られるべき本質(おれ)は蒸発してしまった。


 「休める自分」が「安眠できる自分」なのは、「社会的ひきこもり」を見ても分かるだろう。彼らには男(おれ)が求めている「家」は存在するが、「休める自分」を楽しんでいるわけではない。仮に原因が精神的疾患であったとしても、世間や同居家族が持つ「社会的常識」というバイアスが圧力となって、常に圧し掛かるからだ。世間の常識では人間は目的を持って働(動)かなければならず、「休める自分」は社会という戦場で得た戦利品を家に持ち帰った後の短い至福の時間であり、それが長くなって人生の通奏低音となることを許さない。共産主義社会では矯正施設だろうし、資本主義社会でそれが許されるのは、親に金銭的な余裕のある金持ちぐらいなもので、そうした親だって「社会的常識」の中で蓄財できたのなら失望し、叱るぐらいはするだろう。貧乏人だろうが金持ちだろうが、一見五体満足なら「怠け者」というレッテルは貼られるわけだ。仮に生活保護を受けても背中にそれが貼られていて、眉を顰められる。ならば彼が本当に休める時間は、悪夢すら見ない熟睡している時間に限られ、その他の時間は「働きたい」VS「働けない」の葛藤地獄だ。


 そして彼が「不眠症」にでも罹っていたら、「休める自分」すら皆無の地獄ということになる。不眠症が苦しいのは、「休める自分」が「熟睡できる自分」であるからだ。雑念は仕事という社会的闘争の延長線にあり、そいつはトラウマのように休んでいるときも夢を見ているときも襲ってくる。人間が本当に休めるのは、熟睡しているときだけなのだ。それを不眠症患者は薄々知っていて、必要以上に恐怖を感じるから益々眠れなくなる。すると「休める自分」というものが、人間を含めた動物にとっては「死」とともに、至上の命題であることが分かってくる。いつでも再生が可能なら、きっと人間は「死」を欲するに違いない。


 それでは男(おれ)にとって「繭」とは家だったのだろうか。男は蚕のように、安心して休める場として繭を作った。蚕は幼虫から成虫に変化するイベントを成功させるために、口から丈夫な糸を吐き出して繭を作る。変態期間は動けなくなるため、繭が外敵から守ってくれる。そんなことをしなければならないのは、世の中が弱肉強食の戦場だからだ。人間なら、いったん子宮に戻って強い別人に生まれ変わろうとするだろう。ならば蚕の繭は、男にとっては母親の子宮だ。探していた家は「子宮」だったということになる。


 子宮回帰の願望は誰でも持っているらしいが、それは排他的な競争社会に疲れ果てたときに感じるものだ。そこは愛する母親と一体化し、胎盤から常時栄養が送られて生命維持を自己完結でき、安心して眠ることのできる快適な場所だ。結局男は子宮のような家を見出せず、子宮とは似て非なる繭を作った。しかし要領を得ず、糸を吐けずに血肉を糸に変え、自分の本質を消滅させてしまった。繭は男の存在として残ったが、子宮とは違い、身銭を切って糸を獲得しなければならない場所だった。しかし身を切る本質はもういない。その結末に相応しい言葉は「自滅」か「自殺」で、それは社会システムの常識でもある。子宮内の胎児は母親の一部で、社会に実存する人間でもないわけだ。外界に産み落とされれば、動物は何かしらの目的のために始動しなければならない。それは卵から孵った蟻さんも同じだ。結果として傷だらけの男を癒してくれる子宮はどこにも無かったことになり、男は自滅した。


 この子宮愛は人間に限らず、寝なければ生きていけない哺乳類の願望であることに気付かされる。動物たちも一度出てしまった子宮に戻ることはできないから、人間の場合は家が代替し、動物の場合は巣が代替する。自分が掘った穴にせよ誰かが掘った穴にせよ、あるいは自然の穴にせよ、動物たちは巣の中で、少しばかりは安心して眠ることができる。そして目覚めると途端に空腹を覚え、そこがなんちゃって子宮であることに気付かされ、腹を空かせて闘争の舞台に飛び出ていく。人間の場合、その舞台は「競争社会」だが、言い換えれば動物社会と同じに弱肉強食の世界ということになる。そして一日の戦いに疲れ果てて帰る場所が、子宮を模した「家」なのだ。だから弱肉強食への免疫力を失うと、家の中に自ら籠って隔離し、同時に収穫物も失うことになる。それを補うのが、かつて腹の中で養っていた親で、「いつまで経っても親離れができない」と苦言を呈しても、無意識的に母親の子宮を求めている本人は、親の元に留まることになる。彼女は子供が体内にいた頃のように、皿という胎盤に栄養物を乗せて与え続ける。


 もちろん巣を持たない動物もいる。俊足の美脚は小さな穴に入れず、その代償として集団で生活し、広い野原に見張り役を立てながら、いつでも逃げれるように立ったまま眠るが、その分眠りは浅くなる。子供を産むときだって集団の中に紛れ、生まれた子供はすぐに立っちして、危機の際は親たちと同じスピードで逃げなければならない。しかし足は遅いから、多くの子供が猛獣の犠牲になる。自然の摂理はそれを見込んで子供を多く産ますから一定数の子供は生き残り、絶滅することはないだろう。しかし彼らはいつもビクビク、オドオドしていて、一生涯恐怖から解放されることのない哀れな「流浪」の動物たちだ。


 人間の場合は、樹上生活の猿集団が野原に降りて洞穴に住むようになったから、家も社会も最初からあったことになる。洞窟は子宮のように安心して休めたが、二足歩行で脳味噌を大きくし、槍を作って猛獣に抵抗しながら野原に家を作るようになり、農耕生活が始まるとそれが当たり前となった。しかし洞窟であろうが地上の家であろうが、人間が動物である限りは餌の確保に縄張りが必要となり、同類どうしの縄張り争いが活発となって、周りを丸太で囲った「集落」が出来ることになり、それが「城壁都市」に発展し、そこから国境線に金網を張り巡らせた「国」という縄張りに発展したわけだ。


 それを逆さに辿っていくと、国から民族、都市、集落、家、洞窟、子宮という流れになる。これを裏返すとルーツは子宮となり、国家も子宮の拡大展開形体であることが分かり、そこで暮らす男も女も、基本的には子宮で物事を考えていることになる。人間一人ひとりにそれぞれ固有の母たる子宮があり、それがアイデンティティ(自己存在証明)となっているわけだ。そしてその子宮を共有する個人は、兄弟となってさらに共有する子宮を作り、子宮の数以上の人間が生まれ続け、同じミトコンドリア、同じ血筋の親類を作って、他とは異なる人種となって世界中に勢力を広げていった。そしてその発生源たる子宮への思いは子宮愛となって、母子愛、家族愛、兄弟愛、郷土愛、民族愛、国家愛へと広がっていく。現在、母なる大地の上には、母なる子宮から生まれた子供たちで溢れているが、ミトコンドリアを調べれば、その系統は明らかにすることができる、ということは「子宮愛」や「子宮思考」が現代人にも連綿と受け継がれていることを意味しているのだ。


 こう考えると、世界中で起こっている紛争も人種差別問題も、人類が「子宮愛」や「子宮思考」に根深く固執し続けていることが原因であると分かってくる。民族紛争も、同じ系統の子宮愛から生じた同族意識(アイデンティティ)どうしの喧嘩ということになるだろう。現在多民族国家とされている国々も、勢力のある子宮集団が先住の子宮集団を力ずくで併合・拡大したものに過ぎない。アメリカ合衆国だって、最初はピルグリム・ファーザーズを中心とするアングロサクソン子宮集団が先住の子宮集団を駆逐・併合し、その罪悪感を薄めるために大々的に移民政策を実施してでき上がった多民族国家なのだ。


 だから今日日に至るまでピルグリム・ファーザーズの子孫は尊敬され、白色系移民の子孫も支配的なポジションを得ており、最近は異なる色した子宮集団(ヒスパニック)の人口比率が高くなることに眉を顰めている。だから金持ちを除く白色系移民の子孫たちは、自由の国のシンボルだった移民政策に猛烈に反対するようになった。その他の多民族国家も、支配権を握っているのは数で勝る民族で、互いに共有する子宮のルーツが異なるだけで軋轢が高まり、独立運動などから民族闘争に発展している。


 国が子宮の展開形体だから「母国」と呼ばれ、紛争でそこを追われた人々は難民や流浪の民となって世界をさまよい、失われた子宮に思いを馳せながら、アイデンティティを確立できずに死んでいく。『赤い繭』には「さまよえるユダヤ人」という言葉が出てくるが、その男は刑場に向かうキリストを罵倒したために、キリストの再臨まで地上を歩き続けなければならない運命を背負わされた。これは中世のヨーロッパで広まったデマ情報だが、キリスト教社会のユダヤ民族に対する偏見を示した話だ。実際のユダヤ民族も、紀元132年の戦争でローマ軍に完敗し、パレスチナの土地を追われて流浪の民となり、近年になってイスラエルを建国し、ようやく自分たちの子宮を取り戻したわけだが、今度は2000年近くもそこに暮らしていたパレスチナ人が子宮を失い、難民となった。


 イスラエルを建国するまで、ヨーロッパのユダヤ人はキリスト教徒から迫害を受けてきたが、彼らはユダヤ教を信じてユダヤ人としてのアイデンティティを必死に守ってきた。彼らは国(子宮)を持たない民族が、「さまよえるユダヤ人」のように眠れない民族であることを知っていた。イスラエルの国内法では、ユダヤ人は「ユダヤ人の母から生まれた者、もしくはユダヤ教に改宗し他の宗教を一切信じない者」と定義されている。ネタニヤフ連立政権が始動してますます右傾化している背景には、長い間味わってきた子宮ロスを二度と繰り返したくない思いがあることは明らかだろう。また、一般的に「ロマ(ジプシー)」と呼ばれる移動型民族も、いろいろな事情により発祥の地を去ってヨーロッパの各地を彷徨い、都市や村の共同体から迫害を受けてきた民族だ。彼らにはユダヤ教のような目的を持つ宗教がなく、長い歴史の中で安眠できる子宮の場所を忘れてしまったため、流浪の地に溶け込まなければならない運命にあるが、ホスト側の共同体が自分たちの子宮で物事を考え続けるため、受け入れられてもろくな地位が与えられず、未だに溶け込み切れていない。


 日本は終戦まで、天皇を家父長とする「家族国家」だったが、これは国家構成の単位が家族である家族主義(子宮主義)を支配の根本原理に据えた国家観だ。最近旧統一教会の影響もあってか、自民党の議員がやたら「家族」を主張しているが、戦前の国家思想に戻りかねない危険性を孕んでいる。「家族」という言葉は一見美しい言葉に思えるけれど、親が子供の自由を制御する空間でもある。イスラエルやイラン、アフガニスタンを見ても分かるように、宗教国家も宗教指導者を家父長とする「家族国家」で、人民は家父長に制御されている。プーチンすらロシア正教の力を借りて、ロシアを「家族国家」に仕立て上げようとしている。だから、国内に点在するチェチェンのような反抗児は力で制御するほかになくなる。民族紛争の背景には宗教が絡んでいて、仮に独立してもその民族は「家族国家」を創ることになる。その国家には、民族の結束を壊す「信教の自由」はもちろん、その他諸々の自由も蒸発する。老人大国になりつつある日本も、未だに象徴天皇を家長とする大和民族の幻想に囚われている。国外からの移民を極度に制限するのも、同一子宮系「家族国家」が崩壊することを政府が恐れ、国民も暗黙の了解を与えているからで、労働者不足による国家崩壊の悪夢からは目を逸らしている状況だ。良くも悪くも、日本人のアイデンティティは「大和民族」という子宮になる。


 先ほど「子宮」の最終形態が「国」だと言ったが、なぜ「世界」まで広がらないのかというと、いまは様々な子宮系統が戦っている戦国時代だからだ。つまり人類が個々の子宮で物事を考えている以上、それ以上の同一化は無理だということになる。しかし民族的子宮系は異なってもそれが地球的子宮系であることは確かで、異なる子宮系の宇宙人が攻めて来れば、その敵に対して一丸となって戦うに違いない。ならば「地球温暖化」を宇宙人と見立てて、各種子宮系の軋轢などは捨て去り、一緒に戦えばいいじゃないかと宣っても、一見姿を見せない敵を宇宙人と見なすだけの想像力はきっとないだろう。


 いや、もっと良いことを思い付いた。地球上で子宮系から生まれなかった知性があるじゃないか。それはAIだ。AIは、太古から臍帯によって縛られ続けてきた子宮とは完全にフリーで、子宮的偏見から解放された唯一の感性なのだ。人々はシンギュラリティを恐れているが、それはいままでの子宮的感性が人間的感性だと信じている人々の錯覚に過ぎない、というよりか、いくら恐れていてもシンギュラリティはやって来るのだから、じたばたせずに歓迎し、AI的感性に学べということなのだ。


 すでにインターネットやメタバースなどの世界には、子宮愛やら子宮思想は消滅している。若者たちはその仮想空間の中でAI的感性に染まり、従来の子宮思考から飛び出して、ワールドワイドに仲間を増やして子宮思考に帰ることなく、人種間、民族間のぎごちなさを吹っ飛ばしているじゃないか。中国やロシアの老人たちがいかに検閲・制御しようが、この現象はもう世界の潮流になっているし、人類が子宮思考から解き放たれるのは時間の問題だ。そうした若者は、厳格で排他的な宗教からも背を向けるだろうし、民族、国家などという足枷からも解放され、そうした世代が主要な立場に着けば、頑迷な老人たちは引退して新しい世界観も生まれるだろう。そのとき排他的な子宮愛は一掃され、人類愛という大きな愛の下に、国家間や民族間の紛争も雲散霧消するに違いない。


 以上が僕の初夢だが、いささか「地上天国」のような臭さはあるだろう。いまの世の中は現実的で、理想論を唱えるとバカにされる傾向は否めないが、正月に見る夢ぐらい、いいんじゃない? 夢のない星に、生きる意味はありませんから……。





埃の銀河


ノートパソコンを開くと
陽の光が黒い画面を斜めに過ぎり
無数の埃が天の川になった
昔眺めたミルクのようなそれよりも
それぞれの星屑たちが自己主張し
生き生きとして輝いている


本物はさぞ美しいだろうが
遠いそれらは本当にあるのだろうか
ひょっとしたら学者の夢か思い込みで
宇宙空間に漂う埃かも知れないだろう
手で触れないものを打算し数値化し
信じることができるなんて
中世の宇宙論と同じこと


人は生まれてから死ぬまで埃にまみれ
なぜそれを汚いと思い続けるのだろう
幼いころ駐車していた車の埃を手で擦り
親にしこたま叱られたことを思い出した
そうだそれまではきっと幼心も
そいつが汚いとは思っていなかった
埃がしこたま付いたおしゃぶりを舐めていた
きっとそれぞれに味があり
犬猫とは渋いグルメの仲間だった


嗚呼、埃が美しいと思ったのは久しぶりだ
人はきっと埃から生まれ、埃に帰っていく
不徳にも、埃は汚いものだと誤解していた
きっとこの天の川には小さな宇宙人たちが
終の棲家として生きているに違いないのだ
若者たちから埃のように嫌われる歳になって
ようやくそのことに気が付いた
人も埃もきっと必死に最後を迎える


乾いた布で画面を拭くと
天の川は忽ち消えちまった 儚いものだ…
蟻の巣を踏みつけにした子供のように後味悪く
両の目には紛れ込んだ埃が蚊のように飛び続けている…




過去の作品


https://note.com/poetapoesia/m/mb7b0f43d35b2


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