詩人 響月光のブログ

詩人響月光の詩と小説を紹介します。

エッセー「『ファウスト』とカルト」& 詩

エッセー
『ファウスト』とカルト


 ゲーテの戯曲『ファウスト』の中に、「時よ止まれ、お前は美しい」という有名な台詞がある。ファウスト博士は、色々な学問に精通した博識の学者だが、老齢になっても究明し切れなかった謎が多くあったことなどに失望し、虚脱感に苛まれている。そこにサタンが現われ、若い体を授けてやるから、もういっぺん人生をやり直したらどうかと誘いをかける。彼はその甘言に乗って、サタンと血の契約を交わすが、その内容はもし自分が「時よ止まれ、お前は美しい」と口にしてしまったら、死後の魂はサタンのものになるというもの。若い頃から学究一筋の博士はいままでそんな経験もなく、そんな言葉を自分が発するとは思わなかったから、軽い気持ちで契約してしまったのだ。


 若返ったファウストは禁欲的な学者人生とは正反対の、欲望に身を任せた不道徳きわまりない波乱万丈の人生を歩むことになるが、結局最後に得られたものは失明と後悔の念で、サタンの部下が彼の墓穴を掘る音を、幾百万もの民のために始めた開拓工事の音と勘違いし、万民に尽くせることへの喜びから「時よ止まれ、お前は美しい」と呟いてしまう。サタンは嬉々として彼の魂を地獄に持ち去ろうとするが、天使集団が現われて魂は天上に召される。


 「時よ止まれ、お前は美しい」という言葉を別の言葉に置き替えると、「至福の時よ、永久に」になるだろうか。サタンはファウストの死に際に、「どんな快楽も幸福も彼を満足させない。こうして、彼は変化する姿を求め続ける」と皮肉る。つまり至福の時を線グラフで表すと尖ったピークとなり、普通は直ぐに下がってしまって長続きはしないということだ。


 ファウストは、至福の時を求めて人生をやり直したが、それらは一見至福のようで、すぐに急落し後悔となる苦いものだったから、契約の言葉を発せずに済んできた。しかし本当の至福は第二の人生の死に際に訪れ、しかもそいつは勘違いの極みだった、……ということでゲーテは「至福の時」に否定的だったかというと、そうではないだろう。結果としてファウストは天上に召されたのだから。第二の人生では過ちを多く犯したが、最終的に人に尽くすことが自分の求めていたことだと悟り、民衆の救済を実現させて人生最上の時を迎えたと錯覚し「時よ止まれ、お前は美しい」と呟いた。実行に移しもしないのに、神にはそれが懺悔と回心に映り、それまで犯してきた諸々の悪行をチャラにし、救済したというわけだ。甘い神様だが、これは親鸞の教えにも通ずるゲーテの信念だったに違いない。


 ファウスト博士は第二の人生で、欲望のおもむくままに年若い娘を誑かして子供を産ませたり、淫らな魔女たちの祭典に参加したり、美人人妻のへレナを生き返らせて妻にしたり、領土開拓に伴い住人を殺したりと散々悪行を繰り返すが、それらはすべてサタンの手を借りて自身の欲望を実現させたものだった。しかし、死ぬ間際に至った「人々が幸せに暮らせる国を造る」(地上天国)という願いは、サタンには理解不能な「他愛の精神」を礎にしたものだった。神はファウストがサタンから離脱できたものと理解したわけだ。


 レンブラントに『放蕩息子の帰還』という絵があるが、これは新約聖書のルカの福音書を題材にしている。自らの意思で家を出て放蕩三昧の生活を送り、最後には一文無しになった息子が父を頼って帰宅し、後悔の念を述べようとすると、すでに父親は何事もなかったかのように快く迎え入れたという話だが、これも『ファウスト』の結末と同じくキリスト的な「神の憐れみ深さ」を示しているものだろう。『ファウスト』の結末で主人公を救ったのは神の慈愛だったが、『放蕩息子の帰還』でうらぶれた息子を救ったのは父親の慈愛だった。しかし、ファウストが生活に苦しむ民衆への「慈愛」を示さなかったなら、神はファウストを救わなかっただろう。つまり、ファウストは死に際の錯覚で、放蕩息子は父親の温かい腕に抱かれて「慈愛」を相互共有し、神、あるいは父親と強く結ばれたというわけだ。


 『ファウスト』には三種類の欲望が描かれている。「自愛」と「慈愛(他愛)」と「アイデンティティ」だ。人間の行動を促しているのは「そうしたい」という欲望で、それは自分だけが満足するためのものと、人を満足させて自分も満足するもの、「自分が何か」を知るためのものに分かれている。第二の人生を得て放蕩三昧の生活を送るファウストは、「自愛」を満足させるためにがむしゃらに行動する。その目的は異性への愛だとか、性的快感だとか、富だとか、領地だとか、権力だとかで、これらを得るためには他者との戦いや不埒な行為が必要となり、心身ともに傷つく他者が量産されることになる。戦争などで無法と化すと強姦などの犠牲者が出るのも、強い者の自愛的行為を誰も抑えることができなくなるからで、ファウストはサタンの力を借りてそれを実行したというわけだ。


 社会秩序が維持されている場合、こうした欲望は社会のルールに従って処理されていく。自愛を満足させる欲望の多くは、お金で得ることができるだろう。そしてそのお金は、正当に得るものであれば誰も傷つくことはない。しかし富は富を産むという仕組みが社会システムの中に内蔵されているから、貧富の差の拡大という社会の歪みが生まれることになる。結果として、社会システムの不備から生ずる社会の歪みに、多くの貧民が苦しむことになる。


 こうした完璧でない社会の中で、「自分は何者なのか」とか「自分は何をしなければならないのか」「何のために生きているのか」などと、自己同一性の確立に悩んでいる若者も少なからずいるに違いない。しかし、ファウスト博士自身も、二度の人生を通してアイデンティティの確立に至らなかった人物だろう。『ファウスト』は、老博士の自分探しの旅をテーマにした作品なのだ。彼は最後の最後で「時よ止まれ、お前は美しい」と呟き、アイデンティティの確立に満足しながら天に召されていった、たとえそれが勘違いだったとしても……。このように、人生にとって「アイデンティティ」という言葉は難題だし、難解だ。若者に限らず、多くの人間は一生涯「何のために生きているのか」を心の片隅に置きながら、死んでいくのが普通だ。


 一方サタンは悪徳一筋の堕天使だから、「時よ止まれ、お前は美しい」という台詞を放ったファウストを、ようやく悪の権化になれたと糠喜びし、その魂を地獄へ持ち運ぼうとする。しかしファウストは、万民のための開拓事業を進めることにアイデンティティを見出し、勘違いにしろ「慈愛」の境地に辿り着いて、天国に旅立つことができた。


 多くの若者は、学生時代に自己の存在証明を見出そうと暗中模索している。その中には、「自愛」を満足させるために、まずは金持になろうと努力を始める者もいるだろうし、ボランティアなどで「慈愛」の精神を育もうと努力を始める者もいるだろうし、子供の頃からの夢を叶えようと努力する者もいるだろう。青年期においては「金持」も「人助け」も、「医者」も「弁護士」も「企業家」も、目的がはっきりしている場合はアイデンティティの確立も比較的簡単だ。挫折がない限り、あるいは挫折するまで、その目的に向かって努力すればいい。また、アイデンティティのことなど考えることもなく、軽く生きていける若者も多い。


 しかし、学生や挫折した勤め人の中に、アイデンティティの確立ができずに苦悩し、無気力状態に陥っている人たちも少なからず存在する。彼らが求めているのは、ガッツリした目的だ。医科大学の受験生が持つだろう、「医師」のようなハッキリと分かる目的。しかし、そんな目的は見出せないし、空ろな眼に映る社会はひどく歪んでいる、とすれば、こうした若者たちに忍び寄るのがメフィストフェレスのようなサタンかもしれない。この悪魔たちはメフィストフェレスとは異なり、ファウストが死に際に夢見た「地上天国」というガッツリした計画を担いでやってくるが、それはファウストの錯覚と同じくとりとめもない代物だ。


 世界中に多くの宗教団体があるけれど、その多くは「地上天国」的な目的を掲げている。その構成員が熱心に布教活動を行うのも、自分たちの宗教によって地球を白一色に染め上げる最終目的があるからだ。しかし「地上天国」という目標は、あるかないかも分からない空の上の天国を地上に移設するようなもので、絵に描いた餅のような構想だ。15世紀から始まったヨーロッパの「大航海時代」に便乗して、キリスト教はザビエルのような宣教師を未開地にまで派遣し、地球を白一色に染め上げようとしたが、途中で挫折した。しかし多くの国で国教となり、国単位では「地上天国」を実現したかのように思えたが、多種多様な「自愛」の欲望が「慈愛の」精神を凌駕して不正が蔓延り、とても天国とは言えない代物になった。これはイスラム教国でも同じことだろう。今日日に至って、男たちには天国でも女たちには地獄のような国も多い。


 ホッブスは国家を旧約聖書の「リヴァイアサン」という怪物に喩え、神の次に強い存在だとしたが、キリスト教団体もイスラム教団体も、国家を抜いて「リヴァイアサン」の地位に鎮座した歴史がある。海に住む龍のような怪物で、冷酷無情に敵や獲物を飲み込んでいく。ホッブスの時代には、国家にとって領土拡大は当たり前のことだったから、怪物のように牙を剝いて隣国や弱小国を占領し、そいつを糧にして固太りしていった。しかもその欲望は、現代でも連綿と続いている。


 キリスト教も国家と利害が一致し、タッグを組んで世界中に遠征し固太りする。しかし民主主義が旺盛な時代になると、巨大な宗教も派閥に分裂し、「信教の自由」の下に数多くの新宗教が生まれ、それらの多くが「地上天国」をお題目に活動を開始する。かつての大型怪物は、いまはアメーバのように巷で蠢いている。小さいなりに画餅の額を見上げ、世界中を白くするために地道に従者を取り込んで、少しでも大きくなろうと頑張っている。布教活動は「地上天国」を掲げる宗教団体にとって、アメーバがエサを取り込むことと同じ性と言えるだろう。常時泳いでいないと生きていけないのはマグロだが、この手の宗教団体も、信者を獲得し続けないと生きていけない。アメーバ状態をリヴァイアサン状態に発展させなければ、「地上天国」の夢に近付くことは不可能だからだ。


 しかし、地球を白一色に染める活動は、オセロゲームのようなものだろう。オセロ盤の上で、各宗教は白い石を増やそうとしのぎを削る。けれど白い石の裏側は黒い石で、それは隠された暗闇だ。「地上天国」は白く輝いているが、その裏には黒い部分がある。天上の天国は知らないが、少なくとも下界の天国はマネーが深く関わる世界で、マネーには暗闇が付き物だからだ。地上に天国を創るには、形なりにもリヴァイアサンの威容をアピールする必要がある。そして教祖は紙の王冠を被ろうが、格(ステージ)を誇示するためにバチカンのような立派なシンボルを造ろうと考える。「人間はシンボルを操る動物である」(カッシーラ)のなら、王様にも教祖にも多くの人々を圧倒する威厳が必要で、それを分かりやすく示せるのは巨大建造物というシンボルだ。そしてその元手は信者の献金か、信者の稼ぎということになる。


 こうした宗教で、どれがカルトでどれがカルトでないかを区別するのは難しい。反社会的な宗教集団といっても、カルトの教祖も信徒もサタンであることはまずないだろう。教祖も信徒もそれが正しいと思って活動しているのなら、ファウストのようにサタンに操られているということだ。「サタンに気を付けろ」と説教する教祖がサタンに操られているとは笑止千万だが、教祖が詐欺師でなければ「地上天国」という共同幻想に向かって、教祖も信徒も確信犯的に突き進んでいくことになる。教祖の説教内容も、勧誘時の悩み事相談も、多額の献金や悪徳商法も、資金集めとしてルーチン化しているに違いない。「地上天国」という最終目的の実現には金が必要で、法外な献金も悪徳商法も容認される。そのことで多くの部外者が被害を被っても、地上天国が創られた暁には、すべて浄罪されることになるのだから、というよりも、それらは大目的達成のための必要悪なのだ。その大目的は「地上天国」の創造で、資金繰りの道筋に散在する犠牲者たちは生贄の羊というわけである。


 ファウストが夢見た「地上天国」は、自身が正当に得た資金で成されるものではなく、サタンの力で得た不正の金を原資にしている。それでも神はファウストの魂を救済した。人の理想が神にとって正しいものである限り、その手段はどうあれ、神は救ってくれるというわけだ、というより人々が常に理想を抱き続けなければ、社会は変わらないとゲーテは考えたのだろう。


 フランス革命によって民主主義が芽生えたように、ロシア革命によって格差是正の精神が培われたように、理想を旗印とした破壊的なレジームチェンジによって既成概念が覆され、新しいものが生まれることも事実だ。国家にも、企業にも、宗教団体にも、目指すべき理想はあるだろう。そしてその理想は、サタンが描く理想であるべくもない。しかし少なくともいまの日本では、外国からの侵略はあっても革命はありえないのだから、法的な検討は政治に任せるとして、宗教団体には「公共の福祉」なり「コモンセンス」なりを意識した良識ある活動を遵守してほしいものだ。それを逸脱した団体がカルトと呼ばれ、非難されるのだから……。









コンフィーネ(境界線)


線の向こうに異次元の世界がある
線の向こうにお前が生きている
私はお前を理解しようと努力した
微かな摩擦が異物どうしを溶接するように
すり合わせることから未来は始まるはずだ
しかしお前が息づく空気には
私を窒息させる不快な毒が満ちていた
そうだこの境界線は卵のような球面を成し
その中に私は閉じ込められていたのだ
そいつを破ってお前の懐に飛び込んでも
生きられるのはせいぜい半年くらいだ
なんとなれば
お前は繁茂する一族の末裔で
私は締め出された一族の末裔だから
お前たちの吐息が蔓延して大気を成し
青息吐息の私たちを分散させたのだ
私は孤独の中で微笑むばかりのお前を夢見る
異次元を生きるお前を忘れて……





真球の星


君の妄想と俺の幻想がぶつかり合う
彼女の勝手と彼の打算が擦れ合う
一人の熱望と一人の渇望が殴り合う
あいつらの虚無と奴らの狂信が取っ組み合う
艶やかな肌がささくれ
美しい街並みが破壊され
大地は穴だらけになり
海は油にまみれ
蒼い星が不都合に回転し始める
落ち着け、静まれ、穏やかになれ
死んだ者のように口を開くな
ひたすら心の中に問いかけろ
いったい俺たちはどこに棲息している?
そこにいる星が死に行くなら
新しい星は心の中にあるはずだ
それは幻でも誰もが願っている
誰にも平等な豊饒の星に違いない
試しに胸にナイフを刺して肋骨をカチ割り
心臓を引き裂きドクドクと血を流し
真珠貝から高価な真珠を取り出すように
育んできた理想の星を取り出してごらん
完璧な真球 逆境がしがみ付くくすみすらない
そして君たちは後悔し、息絶え絶えに呟くだろう
「同じだった、まったく同じだった」と……










響月光の小説と戯曲|響月 光(きょうげつ こう) 詩人。小熊秀雄の「真実を語るに技術はいらない」、「りっぱとは下手な詩を書くことだ」等の言葉に触発され、詩を書き始める。私的な内容を極力避け、表現や技巧、雰囲気等に囚われない思想のある無骨な詩を追求している。|note
















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