詩人 響月光のブログ

詩人響月光の詩と小説を紹介します。

エッセー「イメージとしての枯山水」& 詩

イメージとしての枯山水


 5、6歳の頃、自家中毒(周期性嘔吐症)という病気に罹かった。体内に生じるケトンという物質に中毒症状を起こして嘔吐を繰り返すもので、神経質な子が罹りやすいという。嘔吐が治まるまでは安静にしていなければならず、気持ちの悪い状態で天井板の木目を眺めていると、それが流れ崩れて数個の渦になって回り出す。ますます気持ちが悪くなるので目を閉じるが、裏瞼に渦が移動して再び渦どもと対峙してしまうのだ。瞼の渦は水面に墨汁を流したような灰色だった。


 なすすべもなく、気持ちが悪くてもそのまま見つめる以外になく、次第に吐き気を催してくる。恐れたのは、その渦のどれかに吸い込まれてしまうのではないかということだ。しかしじっと我慢していれば、渦はだんだんエネルギーを失い、消えていく過程でいつの間にか眠りに落ちていく。目が覚めると気分がすっきりして、普通の状態に戻ることができた。


 龍安寺の石庭を訪れたとき、白砂の渦を眺めながら、不覚にもあのときの渦を思い出した。しかしこの庭は作庭家の意図が謎のままだというから、訪れた者の自由な見立てが可能で、どんなに酷いものを連想しても、それはそれで許されるはずだ。


 もっとも、一般的に枯山水の砂紋は海や川の水の流れを見立てているから、子供の僕を苦しめた瞼の渦と見立てるのは場違いだ。あれは水の流れではない。水の渦には厚さがあり、奈落らしきものが存在するが、あいつは裏瞼のスクリーンに映った奥行きのない渦だった。水面に灰色の絵具をたらし、筆でかき回したときにできる二次元の渦……、ならば目の前にある枯山水の渦もきわめて平面的だ。どう見ても、砂という無機物のイミテーション。水の中には微生物が潜んでいるだろうに、白砂には生命も存在しない。だからきっと、瞼に映る渦を似たものどうしだと思ったに違いなかった。幻覚の渦はこの世の物とは思えない不気味さを湛えていた。それはグロテスクな模様で、体温を感じさせない無生命の運動だった。そして枯山水も、石の根元にこびり付く苔以外は、無生命で統一されていた。


 座禅の目的は無の境地に入ることだと言われる。無の境地とは、生物のしがらみから解放された境地だ。生物のしがらみとは、人間だろうがミジンコだろうが、およそ生物として生まれたからには死ぬまで生きなければならない宿命が起因の、他者との間で起こるあらゆる軋轢や感情を意味している。座禅は、無生命の存在に感情移入することだ。演劇指導で、「岩になったつもりになってみろ」などと言われるのも同じことだろう。煩悩は、人間という生物が生き続けなければならないときに生じる垢のようなものだ。


 ならば、座禅の助けとなるのが枯山水だとすれば、砂紋が川だとか石が蓬莱山だとかといった見立ては、作庭家の見立てが存在しない石庭では無視してしかるべきものだ。いや、あえて見立てるなら、石庭は全体として宇宙以外の何ものでもない。幼い僕が、瞼の渦に吸い込まれるのを恐れたのと反対に、修行者が自分自身の存在の真実を探そうと思えば、その心はこの枯山水の渦に吸い込まれなければならないのだ。すると、庭石は星々であり、15石すべてを同時に眺められないのは広大な無限宇宙を表している。砂紋は星雲であり、少しの苔は無生命宇宙の中にわずかに点在する塵のような生命体であることが理解できる。人間は苔のそのまた一部で、星の裾にこびり付く寄食者としての存在だ。 


 そして修行僧の心が石庭宇宙の空間を漂い始めたとき、重力や引力を始めとする目に見えない力によって、宇宙が止まることなくダイナミックに流れているのを思い知らされるだろう。大星雲が小星雲を呑み込んでいく。ブラックホールに星々が呑み込まれる、衰えた星が爆発して惑星を呑み込み、すべてがガスとなる。そして宇宙では常に大きな力が小さな力を凌駕し、関与し、支配していくことを理解する。そして宇宙のほんの一部である生命体の世界でも、この無機宇宙の法則が適用されていることに気付かされるだろう。勢いあるドクダミがほかの花々を蹴散らしていく。勢いある外来種が在来種を蹴散らしていく。軍事大国が軍事小国を侵略していく……。


「草木国土悉皆(しっかい)成仏」という仏語があるが、草木や土石のような非情のものでも、仏性(仏陀となる可能性)があるかぎり有情のものと同じように成仏できるという意味だ。これは、心のない無機的な宇宙も心のある生物である人間も、同じ仲間だということだ。むしろ人間は無機宇宙の一部(宇宙内存在)であることを理解しなければならない。修行僧は仏性を得るために座禅をする。枯山水という宇宙に向かい、生物である一切を捨て、母なる無生物の宇宙に身を投じて宇宙と一体化し、不滅なのは魂ではなく無であることを理解する。欲望がらみの天国などはどこにもなく、あるのは無限に流れていく無機宇宙だ(最近いろんな有機物が見つかっているが…)。


 座禅から一転して平常心(地球内存在)に戻ったとき、恐らく修行僧は生物としての人間に気付かされることになる。しかしその立ち位置は宇宙からの視点に変わっているだろう。地球は宇宙の星々と変わらぬ弱肉強食の世界だが、黄金の茶室や豪華な宮殿を目指す者もいれば、宇宙法則に反して侘び・寂びの心に価値を見出そうとする者もいる。そして何よりも宇宙法則である無常を美しいと思い、当然のこととして受け入れる心が、悟りの精神に近しいものであることを知ることになるのだ。




嗚呼地球


蒼ざめた地球は苦しみの星
生命の誕生は闘争の始まり
進化は生き残るための改造
勝者は栄え敗者は滅びゆく
友好・友愛は甘ったるい幻
愛は一族繁栄のためのもの
さあどん底まで飢えてご覧
多くの愛が忽ち消えてゆく
骨肉の争い数々のうらぎり
今こそ発揮しろ残虐な才能
代々受け継がれてきた狡知
地球は再び求めているんだ
香り立つ生き血のにおいを
嗚呼地球嗚呼生物嗚呼人間
地獄の中で夢を見る愚か者


野獣たちへ


神は大地を戦場として創られた
狩人の中の狩人たちよ
生き抜くために戦い徹せ
シンプルな感性を研ぎ澄まし
群れを成すために同調し
敵よりもすばやく獲物よりも大胆に
目的に向かってなだれ込み
あたりかまわず蹴散らして
血みどろの道を切り開くのだ
信じることは正義で
考えることは卑怯 
突き進むことは勇敢で
立ち止まることは臆病
戦場は修羅場と化し
勝ち残る者だけが安息を得る
敗者の血潮は大地に吸われて腐敗し
卑しい地衣類の糧となるだろう
馬たちはこれらを食べて肥え
勝者はその馬にまたがるだろう
敗者は骨の髄まで勝者に捧げ
勝者は栄えるほどに敗者を生み出す
神は大地を戦場として創られ
敗者の血潮で穀物を育ててきた
その穀物は勝者が刈り取り
そのひと握りを神に捧げてきた
勝者であることへの感謝の印に… あるいは
神が常に勝者とともにあることに感謝して…










響月光の小説と戯曲|響月 光(きょうげつ こう) 詩人。小熊秀雄の「真実を語るに技術はいらない」、「りっぱとは下手な詩を書くことだ」等の言葉に触発され、詩を書き始める。私的な内容を極力避け、表現や技巧、雰囲気等に囚われない思想のある無骨な詩を追求している。|note
















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