詩人 響月光のブログ

詩人響月光の詩と小説を紹介します。

エッセー 『片耳の大鹿』& 詩ほか


送る花

(戦争レクイエムより)


死んだ仲間たちの穴に花束を投げ入れよう
ネアンデルタールの人々がそうしたように
そしてその伝統を我々が引き継いだのなら
色とりどりの花を並べる店が消え去っても
雪解けの野辺に生える草の小さなつぼみを
涙で濡れた傷だらけの手で優しく摘取ろう
つぼみたちは常春の天国で力強く開花して
ほかの花々と目覚めた仲間たちを祝福する
猿どものしがらみから解放された愛の象徴
たとえ信じられない過酷な世界が襲っても
春が来れば花たちはつぼみを綻ばせるのだ
不条理な死を遂げた人々に野の花を送ろう
ただひたすら倹しく穏やかな来世を願って



無言歌
(戦争レクイエムより)  


まだ人々が生きていた少し未来のこと
彼らの祖先は大きな戦いを生き抜いて
死んだ者へのせめてもの償いを考えた
心の中の悪いもの汚いものを洗い出し
小さな胃袋に一つ一つ丁寧に積み重ね
剝き出た廃墟の上に一気に吐き出した
吐液は血色の瓦礫をじわじわと溶かし
永い間の風雨と風雪がそれに加わって
灰と血を混ぜた斑模様の土に変わった
血に飢えた兵士の迷彩服にも似ていた
それでも肥沃な土から植物たちは育ち
知らぬ間に深い森に変わってしまった
人々は昔起きた出来事をすっかり忘れ
朝には小鳥たちの歌声で目を覚ました
恋人どうしは愛を語り合うこともない
人々は語り合う言葉を失っていたのだ
彼らの心には美しいものだけが残って
それらは言葉などなくても通じ合った
小鳥のようにメロディアスにさえずり
最後は哀調を帯びたマイナーで終った
まるで古の悲しみを思い出したように 



エッセー
『片耳の大鹿』

21世紀にもなって考えられない?


 動物文学で有名な椋鳩十(むく はとじゅう)に、『片耳の大鹿』という作品がある。少年を含む屋久島の猟師たちが、片耳の大鹿が率いる鹿の群れを追って山の中に入っていくと急な嵐に襲われ凍て付き、近くの洞窟に避難する。するとそこに、数え切れないほどの鹿たちも避難していて、仲間どうしで温め合っていた。猟師たちは鉄砲を置いて裸になり、群れの中に潜り込む。人間と鹿は共に温め合って助け合い、嵐の後に傷付け合うことなく別れたという話だ。


 僕が中学一年のとき、この物語が国語の教科書に載っていて、宿題として読後感想文を書かされた。男子の多くは(僕も含めて)作者のことなんか知らず、これが作り話ではなくて本当の話だと思ったに違いなかった。当時から僕はひねくれ者だったのだろう。家に帰って再読してみると、感動的な話だとは思ったが、どうしても納得できない部分があった。最後に「人と鹿が共に助け合った」といったような文言があったからだ。


 数え切れない鹿たちの中にわずか数人の人間が加わったところで、それが助け合ったことになるんだろうか……。むしろ人間が鹿に助けてもらっただけに過ぎないのではないか……。ならば人間は鹿にもっと感謝しなければいけない。当時、独り合点の仲間ばかり見出していた僕は、この作者も独り合点に陥っているんじゃないかと思って、そんなようなことを感想文に書いて提出したわけだ。


 次の授業のときに先生は優秀な感想文を一点選び、朗読した。当然、感動物語の流れに掉さすような僕の文は選ばれなかったが、それでも最後に「こういった考えの人もいた」と概要を話してくれた。先生も、少しばかり引っかかっていたに違いないが、この物語の趣旨は「敵味方の助け合い」で読者に感動を与えることにあるのだから、その程度で僕も満足だった。これは小説だから名作だが、ルポなら鹿さんの意見も聞かなければならないだろう。きっと大鹿は「助けてやったんだから、もう二度と追わんといとくれ」とでも言うだろう。


 それから学年が上がるにつれ、僕の周りにはどんどん「物事を自分の都合の良い方に考える」独り合点の人が増えてきて、そうした連中と意見が食い違うと疎遠になることも分かってきた。自分の主張と意見の合わない人間はうざったい。一般に、独り合点は自己中心的な欲望が想念になったものが多く、欲望は独り合点の核とも言えるだろう。誰でも味わうのは、タイプの女性が自分のことも好きだと独り合点し、振られることだ。これはその女性の愛を獲得したいという欲望が、「彼女も俺を好きだ」という幻想を引き出したことによる無残な結末だ。


 赤ん坊は母親のオッパイを独占し放題だが、幼児になると保育園などで隣の子の玩具を取ったりするようになる。そのたびに保育士や母親などに叱られて、集団の中の振舞いを学習していく。けれど振舞いはコミュニケーション・スキルに過ぎない。「人の物を取ってはいけない」という思想も集団生活に不可欠な協調のためのスキルで、それは心の中心にあるエゴ(欲望)を覆い隠すオブラートを身に着けるための学習に過ぎないのだ。だからある狩猟民族は、「お前の物は俺の物。俺の物はお前の物」という共通認識で、平気で人の持ち物を漁ったりする。これはある意味で、習近平の「共同富裕」原始版とも言える。厳しい環境では個人が獲物を獲っても、みんなの共有物になってしまう。しかし王様の物になるよりかはマシだろう。王様は「お前の物も俺の物も、みんな俺の物」なのだから……。


 この「欲望」の開祖は、周りの原生生物を勝手気ままに取り込んでいくアメーバに違いない。人間はアメーバの進化系でないことを実証するために教育(社会教育)を受ける。その教育課程で術を完璧に会得した大人は、周りから好かれるようになり、高い社会的地位を得ることができる。そしてその地位の最高位が大統領だったり王様だったりする。しかし王様になって歯向かうものが誰もいなくなると、「欲望」を覆い隠すスキルは必要なくなる。中にはそいつをかなぐり捨てて、勝手放題しまくる暴君も出てくるわけだ。なぜなら「人の物を取ってはいけない」、「人を殺してはいけない」という道徳律は協調のためのコミュニケーション・スキルなのだから(たとえ宗教でも)。王様は思い付いたまま上意下達をすればいいわけで、下々の者との意思疎通は必要ない。


 しかし、先ほど片思いで振られる男の話をしたけれど、アメーバと人間の違いは、この男が単に肉欲だけではなく、彼女を想うという精神的な「愛」を感じ、相手の女性にもそれを求めていることなのだ。たぶんこの「愛」は、弱い立場の赤ん坊が授乳によって育まれた「愛着」のようなものかもしれない。それはオッパイでなく哺乳瓶でも同じことだ。空腹を満たしてくれる者への愛着は、保護された野生動物が飼育係に抱く愛着と等しいものだろう。赤ん坊はそうして愛を身に着け、「欲望」の周りを包み育んでいく。つまり、オブラートは「愛」と「スキル」の二層構造になっていて、それが諍いの抑止力となる。恐らく「愛」の層は「スキル」の層よりも強靭にできているし、ルソーの『エミール』みたいに、正当な教育で磨かれ、鋼のように光り出すかもしれない。きっと暴君のオブラートは何らかの理由で「愛」の層が薄く弱いため、かなぐり捨てるときにスキル層と一緒に剥がれ落ちてしまうのだ。だからわずかに残っている場合は、「鬼の目にも涙」となって周囲を驚かせる。


 しかし世の中では、多くの欲望が感情となって物事を動かしていくのが一般的だ。社会は欲と欲がツタのように絡み合う世界だ。エミールのように利発な子なら、いろんな人と交わりながら成長していくと、似たような独り合点の人々が集まって仲良しになることも分かってくるだろう。そして大人になると、そういう人たちが仲良しクラブや社交界、何々派なども形成していく。そうした固まりは個々の欲望でドロドロとしているのがお決まりだが、その中から必ず強い上方志向の人が出てきて、固まりをピラミッドの形に整えていく。会社でも政治でも、派閥というものはそんな経緯でピラミッド型に出来上がったものだ。こうなるともはや独り合点は集団合点に発展し、同志集団の理論(派閥の論理)というものになっていく。独り合点が集まると、水に落ちた油のように丸く固まり、かき回されて分解するのを恐れるあまり、外皮が硬くなる。派閥は会社だったら地位、国政だったら権力に関わってくるもので、自分たちの地位や権力を守るために違う考えや異派閥を排除して、会社や国の頂点を握ることになる。その過程で集団の論理はエスカレートし、政敵の暗殺なども平気で行われるようになる。(もちろん派閥の論理には高邁な思想もあるだろう。)


 これは「民族」にも当てはまるだろう。社会や集団の中でそれぞれの独り合点がまとまらないと、各々勝手なことをやり始めて、無秩序状態(アナーキー)に陥ってしまう。これを避けるために、太古からリーダーは宗教や共通言語をはじめ、人種的・地域的起源、伝統、歴史などを利用して、地域内の人々を取りまとめてきた(時には力で)。だから「民族」には長い歴史があって、民族の「尊厳」も醸成され、人々の「私は何なのか?」というアイデンティティの柱にもなっている。たとえ彼らの中で意見のまとまらない事態が起こっても、欲と欲がぶつかり合う事態が起こっても、民族という大きな外壁を壊すことがなければ、ある程度のまとまりは維持できたわけだ。つまり今日にいたるまで、民族は集団をまとめる重要な要素としての力を失っていない。そしてこの「民族」は、時たま独り合点で暴走する。


 その結果、長い歴史の中で侵略戦争が繰り返され、民族も内部分裂しながら次第に多民族国家が形成されていく。中国やロシア帝国のように異なる民族や宗教が混在した場合もあるし、アメリカのように、新大陸に英・仏を中心にヨーロッパのいろんな民族が植民地をつくり、先住民族を駆逐して一つの独立国家になった場合もある。そうした多民族国家の政府が国民をまとめる上で最大の障害となるのが、この「民族」でもあるのだ。国家の歴史や人口比率、軍事・経済力などで次第に民族間の優劣が決まっていき、軋轢が生じるからだ。マルクスの『資本論』でネックとなったのもこうした個々の民族で、その結束力は労働者階級の広範な団結力を凌駕していた。


 だからロシア革命でソビエト連邦が出来たときも、広大な領地をまとめるために中央集権化して数で勝るロシア民族の地に政府を置き、そこの役人がいろんな構成国に派遣され、地元の長を追い出して指導にあたり、宗教を弱体化させて共通言語としてロシア語も強制していった。党指導部はロシア人ばかりではなかったが、最多民族であるロシア人をないがしろにするわけにはいかなかった。つまり数で勝るロシア人は、いまの中国の漢民族的存在で、帝政時代もソ連時代もその優位性を謳歌してきたというわけだ。それはヤクザ社会とさほど変わりがないだろう。


 親分子分は結束力があっても、基本的には支配・被支配の関係だ。親分の独り合点が上意下達となり、子分は従わなければならないから、親分の身代わりで刑務所に入ることになる。それが嫌なら、子分は足を洗うか逃げるしかない。その二大親分がワルシャワ条約機構のソ連であり、世界の警察官と言われていたアメリカで、地球という島を分け合っていた。だからソ連の国民はみんな親分気分になっていたし、世界の警察官を放棄したアメリカ国民だっていまだに親分気分に浸っている。その優越意識は「聖なるロシア」や「アンクル・サム」のような象徴的な言葉や絵で美化されがちだが、外国人がそんな国で暮らせば、きっと鼻についてうんざりするだろう。ソ連が解体すると、その親分気分はロシア人が引継いだ。だからかつての子分どもを再び呼び寄せ、支配したがるわけだ。子供で言えば、ガキ大将とその取り巻き連中の心理だろう。ガキ大将は腕力で子分を繋ぎ止めようとする。そういえばプーチンも少年期はガキ大将だったらしい。いまウクライナで起こっていることは、ガキ大将が離れた子分の腕を捩じ上げ、再び子分になれと脅している状態だ。


 ロシア人はウクライナ人を同一民族と思っているが、ウクライナ人の多くは思っていない(※1)。ウクライナ東部紛争へのロ軍介入やクリミア併合の前までは親近感もあったろうが、所詮同等ではなく親分子分の関係だった。スターリン時代には親分風を吹かせて、ウクライナ人から豊富な農作物を取り上げ、「ホロドモール」と呼ばれる大飢餓の辛酸をなめさせている(スターリンはジョージア出身だが)。そのロシア人優位の体制をゴルバチョフがあっけなく崩し、ウクライナをはじめとする子分どもも去っていった。ソ連時代の親分気分をソ連崩壊後のロシア人はいまだに持ち続けているから、「強いロシア」と言ってロシア帝国の再生を目論むプーチンのような暴君が支持されてきたのだろう。「強いロシア」や「大ロシア主義」はロシア人の集団幻想(独り合点)とも言える。


 ふつう「強い国」になるには、軍事力と経済力が必要だ。しかしどちらかに力を注ぐと、どちらかが疎かになる。国の予算は限られているからだ。中国は一先ず経済力で世界を席巻し、いまは不足していた軍事力の増強に取りかかっている。ロシアの場合は軍事大国だが経済後進国だ。プーチンはその解決手段として、化石エネルギー供給国家としての優位的ポジションを追い風に、まずは軍事力で領土を拡大(失地回復)し、その基盤を生かして経済力を高めようと思ったに違いない。対外貿易でも軍事力で優位に立ち、それをバックに外交を巧みに行って良い条件を引き出すのがプーチンの常套手段で、彼の独り合点が政府の集団合点となり、上意下達による独善的な侵略に走ったわけだ。


 以前、「サハリン2事件」というものがあった(2006年)。サハリン2(※2)はサハリン沖の天然ガス・石油開発プロジェクトで、日本を含む投資会社はすべて外国企業だ。投資会社が投資額を回収するまではロシア政府には利益の6%しか入らない契約内容だった。ところが完成間近になって、政府はその工事承認を「環境破壊」を理由に突然取り消したのだ。これはロシア企業を参入させるための口実で、結局事実上の国営会社が権益の半分を横取りし、完成に至った。いまのウクライナ戦争とそっくりなやり口だ。「環境保護」が「ロシア系住民保護」に変わっただけの話だからだ。この事件で外国企業がロシアへの投資を控えるようになったのは当然だが、昨今のエネルギー価格高騰化で資金も潤沢になり、供給者として優位性も確立したので、いまがチャンスとばかりにウクライナに踏み込んだのだろう。ロシアの常識は世界の非常識というわけである(もっとも20世紀前半まではロシアの常識が世界の常識だった)。


 話を『片耳の大鹿』に戻そう。これから後は、僕の勝手なルポ的こじつけである。嵐が過ぎ去ったあとに鹿が猟師を襲わなかったのは、鹿が本能的に逃げる動物だからだ。きっと猟師が鉄砲を拾って一発でも放てば、パニックをきたして怒涛のごとく逃げただろうし、猟師たちは群に踏みつけられてケガをしただろう。しかしそれは故意ではない。鹿が猟師に角を向けるとすれば、逃げられないと覚悟したときだ。一方猟師のほうは人間的な感情に支配され、鹿に鉄砲を向けなかった。仮に猟師がライオンだとしたら、どれか一匹に襲いかかって仕留めたに違いない。ライオンは本能的に追う動物なのだから。


 鹿が逃げなかったのは、猟師が満腹のライオンのように襲う気がないと本能的に判断したからで、大人しく猟師たちが去るのを待った。反対に猟師が鹿を撃たなかったのは、鹿を擬人化してしまったからだ。一時的でもあれ大鹿に人間的な尊厳を与えてしまったため、引き金を引けなかった。彼らは大鹿に敵将を見ていた。だから共に助け合ったことを思い出し、敵(獲物)に塩を送ったわけだ。


 しかしこれは、あくまで猟師の一時的な気の迷い(感情)に違いない。猟師は鹿を殺すことによって、その肉や角や毛皮を売って生活している人々だ。猟師にとって鹿は食いぶちであり、鹿にとって猟師は捕食者ということになる。動物愛護法がなかった時代には法的規制もなく、猟師は自由に狩りをすることができただろう。猟師にとって鹿は生活の糧なのだから、家畜と同じに鹿の尊厳などは認めていないことになる。だから猟師が目の前の鹿を撃たないときは、乱獲で資源が無くなることを恐れたからか、あるいは「憐れみ」という気分的な感情がよぎったからだ。人間にとってそれが気分的なものに過ぎないのは、仮に動物愛護法などで動物の尊厳が認められたとしても、鹿が増えれば「環境保護」の名目で間引きされるし、鶏舎に鳥インフルエンザが流行れば、鶏たちは生き埋めになるのが常識だからだ。そこには動物の尊厳など存在しない。(僕は反対してるわけではない。鹿一匹が幹の皮の一部を一回り食っただけで、根からの水分が滞り木は枯れる)


 『世界人権宣言』は、大戦後の1948年に国連総会で採択された。その第一条は「すべての人間は、生まれながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利について平等である。人間は、理性と良心とを授けられており、互いに同胞の精神をもって行動しなければならない」となっている。しかしこの文の「尊厳と権利」は人間どうしが認め合うもので、当然だが動物に対して言及したものではない。なぜなら「尊厳」は人間だけで手一杯だからだし、なによりもこの「尊厳」は抽象概念で、人々の感情で支えられているものに過ぎないからだ。『世界人権宣言』の作成者には悪いが、これもまた「知識」というコミュニケーション・スキルの一部に過ぎない。


 この宣言は、第二次世界大戦の反省から作られたものだ。もしコロナ禍の中で人間の「尊厳」が踏みにじられ、感染防止を名目に感染者が鶏のように殺処分されたらどうだろう。そんな馬鹿げたことはどこの国もやらないと思ったら大間違いで、大戦中には民族浄化という名目でユダヤ人が同じ目に合っているのだ。彼らはナチの宣伝工作により、尊厳をはく奪されて畜群に貶められた。この時ユダヤ人一人ひとりの名前は、腕に彫られた番号に変わった。鹿の一匹一匹に名前がないように、牛の耳に番号タグが打ち付けられるように……。しかしドイツ人の中にはシンドラーのように、ユダヤ人の尊厳を守ろうと努力した人もいたし、そう思いながらもゲシュタポ(あるいは保安隊)が怖くて行動に移せなかった人もいただろう。一般市民が危険を冒してまで立ち上がる場合は「自身の窮状」による場合がほとんどで、その点からもロシアの若者たちの反戦行動には敬意を表したい。インターネットで世界と繋がる彼らは、世界中が発信する「21世紀にもなって考えられない」といった唖然とした感覚を共有している。


 人間を含め、世の中の多くが利害関係で成り立っている。社会が劣悪な状況に陥ると、国民の感情的な不満を逸らすために、政府は「得をしている奴は誰だ」と犯人捜しを始め、ナチスはユダヤ人に白羽の矢を立てたわけだ。この手の残虐行為はその後もたびたび起こっていて、いまもウクライナで目の当たりにしている。戦争は昨日の友を鬼畜と見なし、その尊厳や人権をはく奪する行為なのだから……。


 人は強い目的を持ったとき独り合点のバイアスが高まり、達成のためには冷酷なことも平気で実行する。種痘法を開発したジェンナーが使用人の子供を実験台に使ったときも、多くの人を救うために同意も取らず、子供の尊厳を無視したのだろう。しかし歴史的には医学的英雄だし、これに関して我々も深くは考えないようにしている。


 「尊厳の無視」について言えば、「強い目的」というのはどんなものでも「 」の中に入れることができ、その結果は対象者の命や尊厳をはく奪する意味で一つになる。ジェンナーは「名声」だとか「天然痘の撲滅」、厚生機関は「鳥インフルエンザの撲滅」だとか、例えば「ハンセン病の撲滅」だ。恐らくプーチン皇帝は「ロシア帝国の復活」だろう。ロシア国民の生活を豊かにするためか、自分の夢を実現するためかは知らないが、他国の人々の血を流し続けている。しかしその結果次第では、ロシア民族の英雄になる可能性だって残されている。太平洋戦争で日本が勝利すれば、東条英機も英雄になっていただろう。歴史がどう流れていくかは誰も分からないし、評価を下すのは時代時代のご都合主義(国民的感情)だ。


 地球という弱肉強食の世界では、利害関係に決着を付ける唯一の手段は「力」だった。しかし第二次世界大戦の苦い教訓から、まがりなりにも世界がまとまって国連が設立され、『世界人権宣言』も採択されたのだ。しかしこれは、本能的な「力」の世界に対峙する抽象的な「理念」の世界で、風のようにクルクル向きが変わる「人心」を手なずけるまでにはいたっていない。人々はいまだに「ブーム」やら「ムード」やらに乗って揺れているのが現状だ。しかしこの宣言は、侵略軍に対抗する義勇軍の御旗(シンボル)にはなり得るものだ。正当なシンボルの下には、人々を結集する力がある。


 いまウクライナで起こっていることを、「21世紀にもなって考えられない」と思う人も多いが、それもきっと世間のムードには違いない。中国総領事の「弱い人は強い人に喧嘩を売るな」発言が顰蹙を買っても、無法の世界ではそれが当たり前のことだし、少なくとも地球はいまだに無法地帯であり続けている。ある意味で、彼は本当のことを言ったのだ。それを非難する人々は感情で終らせず、そうした発言が場違いなものとなるような世界を創る努力をするべきだ。国連を抜本的に改革しない限り、人々が夢想する21世紀にはなり得ないのだから。皮肉なことに、国連は「一番強い親分」にならなければならない。


 この難局を解決する唯一の方法は、しかし「21世紀にもなって考えられない」という単純な驚きであることも事実で、この感情を起点に加盟国の国民が国連改革のウェーブを起こすことにあるのだと思っている。特に常任理事国の国民にそれは求められる。スローガンは単純なもののほうがいいだろう。プーチンによって尊厳や人権を踏みにじられ、命まで奪われたウクライナの人々の心を、世界の人々は共有し始めている。ロシア人の中にもその感情は徐々に広がってきているのだとすれば、その高まりをさらに大きなものにしていかなければならない。もちろん、難しいのは承知の上で言っている。なぜなら、それ以外に方法はないと思うから……。


 しかしロシアや中国の政府が国連改革に乗り出すかというと、それも厳しいのが現実だ。権威主義国の政府はもとから国民を抑圧しているのだから。ならば別の国連的組織を創ろうという考えもあるだろうが、そうなると民主主義陣営と権威主義陣営がますます分断し、新冷戦はエスカレーションするだろう。唯一の望みはSNSなどを使って、まずは民族だとか国家だとかを覆っている強靭なセルなり囲いを崩し、その切れ目から人々があふれ出し、「平和」の旗印の下に結集・融合した地球規模の運動を起こすことだ。当然そのパワーは、国粋主義者や自分優先主義者たちのパワーを上回るものでなければならないだろう。彼らは伝統的に侵略戦争に勝利すると熱狂する人々で、アメーバ族の末裔だ。


 プーチンはこれから、国内をはじめ世界中の人々を敵に回さなければならない。その追い風となるのがインターネットで多くの人が共有する「21世紀にもなって考えられない」という感情に違いない。この感情は純朴だが、「人類は進化すべきもの」という信念が含まれているし、具現化できるのは信念を持った「願い」のパワーだけだ。人間は、信念で願望を実現することができる動物なのだ。当然のことだが、その願望は「平和への願い」で、プーチン宮殿のような個人的欲望ではない。


 動物を狩るのが猟師の仕事なら、人を狩るのが兵隊の仕事だ。祖国を守る英雄的な仕事も、他国に攻め入る理不尽な仕事も、仕事内容からすれば変わりがない。そこには人と人が殺し合う殺伐とした風景があるのみだ。しかし、ウクライナ兵とロシア兵の感情は異なるに違いない。ウクライナ兵の心は祖国の国旗色に染まっている。一方ロシア兵の心は、「俺は何なのか?」というアイデンティティに関わる疑問符で混濁しているに違いない。平和を求める地球規模の願望がロシア兵の心を浄化し、服従的な仕事感情を吹き飛ばしてくれないかと祈るばかりだ。彼らの心にも欲望の苦味を包み込む「愛」というオブラートは存在するのだから……。


(※1)ウクライナには多くのロシア系住民(約17%)もいるが、多くがプーチンに批判的だ。ロシアでは「ルースキー・ミール」(ロシアの世界)という概念が盛んらしいが、これはソ連時代に周りの共和国に移住したロシア人の帰属意識を利用して、かつてのロシア帝国を復活させようとするもの。プーチンはルースキー・ミール基金を2007年に設立している。軍事介入に使った「ウクライナのロシア系住民を守るため」というプーチンの口実は、ルースキー・ミールの考えを具現化したもので、根強い民族的感情を侵略に利用する典型的なやり口だ。
(※2)今回の戦争で、日本ではサハリン2からの撤退が議論されている。撤退すると、液化天然ガス輸入量の約7%が失われる。政府は撤退しない方針を示したが、アメリカの圧力で今後どうなるかは分からない。日本が利権を放棄すれば、そこに入り込むのは中国だろう。


(注:このエッセーは文芸批評ではなく、また特定の職業を批判したものでもありません。)



奇譚童話「草原の光」
二十四


 ヒカリはトリケラトプスの背中に乗って、茫々とした草原を進んでった。ヒカリも仲間も彼のことをケラドンと呼ぶことにしたんだ。ケラドンの歩いた後は長い草が倒され、後ろから小型恐竜たちが大勢付いてくる。ヒカリの頭でとぐろを巻いてたスネックは、「どうして君たちはティラノにならなかったんだい?」って聞いてみた。どう見てもカメレオーネとそれほど変わらなかったもんな。
「そりゃ俺だってティラノになりたかったさ」って体長一メートルのエオラプトル。
「もらった設計図に大きさが書いてなかったのよ」って五十センチのミクロラプトル。
「俺たちは騙されたのさ」って六十センチのコンプソグナトゥス。
「でもなんで恐竜になりたかったんだい?」
 ヒカリの肩に乗ったジャクソンが聞いた。
「カメレオン・コンプレックス」って三メートルのデイノニクス。
「なによそれ?」ってハンナが聞いた。
「体の小さい奴が大きな奴に抱くコンプレックスさ」って一・五メートルのベロキラプトル。
「で、君たちはなんで僕たちの後を付いてくるの?」
 ヒカリは後ろを振り向いてたずねた。
「そりゃ、あんたらの後ろにいれば、ダンプ野郎に食われることはないからな」
「それに大型がミンチになったら、そいつを食おうと思ってるのさ」
「それじゃあカメレオーネに戻っちゃうぜ」ってジャクソンが言うと、「今まで仲間が食われてきたんだから、食い返したいだけの話さ」ってな答え。
「それに、大型連中が闊歩するよきゃ、みんなカメレオーネに戻ったほうがマシさ」ってベロキラプトルが言うと、「マジかよ!」ってデイノニクスが驚いた。
「みんなカメレオーネに戻って、なにが楽しいんだ? いろんな恐竜がいるからこの星は楽しいんだぜ。いろんな大きさの恐竜が食ったり食われたりしてっから、この星は活気があるんだ。とくに小さい俺たちは、いつ食われるかって戦々恐々と生きてるから、体も鍛えられて元気なのさ。敵がいなくなったら、腹なんかボテボテになるに決まってんだ」


 すると突然、強烈な腐臭がして、小型恐竜たちは色めき立った。
「おい、ごちの匂いがするぜ!」
 コンプソグナトゥスが叫ぶと、「たまらないわ!」ってミクロラプトルも叫んだ。
 百メートル先にトリケラトプスが倒れてて、デカいハエがいっぱいたかってんだ。ティラノはトリケラを倒して、腹に嚙り付いたんだな。腹の中身が無くなってる。残りものでもトカゲどもはキャッキャッ叫びながら駆け出して、小さい奴はすばしっこく傷口から腹の中に入って、内側からリブロースを食い始めたし、デイノニクスとベロキラプトルは入口付近でケンカを始めたけど、結局体の大きいデイノニクスが勝って腹の中に首を突っ込んだ。ベロキラプトルは悔しくってデイノニクスのケツに思い切り噛り付いたから、奴は驚いて、脳内の緊急避難用スイッチを押しちまったんだな。とたんに自慢の長いしっぽが根元からポーンと十メートル飛んで、大きなミミズみたいにのたうち回っていやがる。ベロキラプトルはしめしめと、そいつに飛び掛かって捕まえると、くわえて藪の中に逃げちまった。デイノニクスはケツの上から血を流しながら、血に染まった頭を外に出してキョロキョロしてたけど、どうでもいいとばかりにまた首を突っ込んで、食うことに専念したんだ。ケツの痛さなんか、熱中すれば忘れちまうのさ。それに恐竜は痛さに鈍感な連中が多いんだ。


 で、「あれは君の仲間かい?」って、ヒカリがケラドンに聞いたら「俺の兄貴さ」って涼しい顔で言うんだ。トリケラトプスの涼しい顔ってどんな顔なのかってえと、さっき小さな眼でちょっと見たっきり、もう死体に見向きもしなかったから、関心がないってことはヒカリにも分かってたんだな。で、みんなは兄貴を横目で見ながら先を急ごうとした。
「君は悲しくないの?」
「悲しい?」ってつぶやいて、ケラドンはほんの二秒黙ってから、ハハッて笑い飛ばしたのさ。
「だって、お母さんのオッパイを一緒に吸った仲なんだろ?」
「仲だって? おいらと奴は、母ちゃんのオッパイを争う敵なんだ。この星じゃあ大きくならないと生き残れないのさ。だからおいらは必死になって吸った。おいらは兄貴に勝ったのさ。それが証拠に奴はおいらより小柄だろ。だから大型野郎に蹴とばされて腹を出し、急所をガブリとやられちまった。おいらが余計にオッパイ飲んだから、育たなくてあのざまさ」
「だったら可哀そうだとは思わないの?」ってハンナ。
「可哀そう? カメレオーネの多くが王様になりたくって、そいつらみんな恐竜になったんだ。ティラノは恐竜の王様さ。だからティラノになりたかった。けど、どんな恐竜になるかは分からなかった。ベジタリアンだなんて、おいらの親父は貧乏くじを引いちまったのさ」
「分かった、君の親父は仲間の肉が食いたかった!」
 スネックが鎌首をもたげて叫んだ。
「おいおい、よしてくれよ。みんな退屈だったんだ。分かるかよ。退屈なんだ。昼間は一日中草食って、夜になったらお寝んねなんてさ。それに、逃げることにも飽きたのさ。分かんないけど、違う自分になりたかった。みんなが手を叩くような自分だ。みんながビックリするような自分だ。みんなが怖がるような自分だ。みんなが逃げるような自分だ。冒険家だ、探検家だ。王様だ。おいジャクソン、君はカメレオーネだから分かるだろ?」
「分からないな。僕は王様なんかになりたくないもん」
 ジャクソンはつまらなそうに答えた。
「エッ、君はひ弱なカメレオーネが好きなんだ!」
「だって僕はカメレオーネだもの……」
 ケラドンはヒューッと口笛を吹いた。
「でもあなたのお父さんはカメレオーネが嫌だった」ってハンナ。
「だからおいらも嫌なのさ。親父の血を継いでる。親父は強くなりたかったんだ。これは男の本能さ。男はみんな戦士なんだ」
「でも僕たちは、この星の恐竜たちをカメレオーネに戻そうとしているんだよ」
 ヒカリが言うと、ケラドンはヘヘヘと笑い飛ばし、「おいらを食う奴らだけ戻してくれよ」ってうなるように訴えた。
「それじゃあ、不公平だよ」ってスネック。
「みんなカメレオーネに戻らなきゃ不公平だわ」ってハンナ。
「じゃあこうしよう。入れ替えだ。草食恐竜は肉食恐竜になり、肉食恐竜は草食恐竜になる。いままで威張っていた奴が入れ替わるんだ。これなら公平だろ?」
「いいアイデアだね」ってスネック。
「でも、あなたはティラノじゃなくて、あの連中みたいなちっこい肉食恐竜になるかもしれないわ」
「それでもいいさ。ティラノになる可能性があればな。人生は賭けだもの」
「でも残念でした。祖先帰り銃はカメレオーネにしか戻れません」ってジャクソン。
「そうかなあ。カメレオーネの祖先はいったい何なんだ?」
「さあ、何だろう……」
 ヒカリはつぶやくように言った。
「きっと恐竜に違いないさ。だったら、カメレオーネの十倍の過去を設定するんだ」
 ヒカリは祖先帰り銃のダイヤルを十回回してみた。
「さあ、試しに撃ってみろよ」


 みんなケラドンから降りて、ヒカリは魔法にかかったようにケラドンめがけて銃を発射したんだ。そしたらケラドンはみるみるミンチになってミンチの山の上からカメレオーネの頭がひょっこり出た。で、みんなはほれ見たことかってゲラゲラ笑ったんだけど、それで終わったわけじゃなくて、カメレオーネはミンチをガツガツ食いながらどんどん大きくなっていき、最後にはティラノより大きいスピノサウルスになっちまった。で、腹が減ってたらしく、すかさず小型恐竜ともども兄貴を丸吞みして、「あばよ!」ってすたこら逃げていきやがったのさ。奴は泳ぎが好きだから、きっと湖のほうへ行ったんだな。


(つづく)








響月光の小説と戯曲|響月 光(きょうげつ こう) 詩人。小熊秀雄の「真実を語るに技術はいらない」、「りっぱとは下手な詩を書くことだ」等の言葉に触発され、詩を書き始める。私的な内容を極力避け、表現や技巧、雰囲気等に囚われない思想のある無骨な詩を追求している。|note note.com  





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