詩人 響月光のブログ

詩人響月光の詩と小説を紹介します。

エッセー 「音楽的人間」と「画家的人間」 ~キム・ヨナの場合 & 詩ほか

 エッセー
「音楽的人間」と「画家的人間」
~キム・ヨナの場合


 クラシック界の歴史的名指揮者ブルーノ・ワルター(1876~1962年)は自伝の中で、人間は「音楽的人間」と「画家的人間」に分けられると記している。なんでも彼が音楽総監督をしていた歌劇場に専属のテノール歌手がいたが、声はそこそこなのにどうもしっくりと歌うことができない。その原因を指揮者は、この歌手が生来の「画家的人間」だからと決め付け、それは生まれつきなので修正はできないと断言しているのだ。


 偉大な指揮者の経験に基づいた言葉だから、僕に反論する気はさらさらなく、その言葉を基に話を進めたいと思う。世の中の人間がどちらかに分類できるのだとすれば、僕なりに部分けをする必要があるだろう。「音楽」は音の流れだから、それは時の流れや川の流れのような一瞬たりとも止まることのない流動的な世界を意味している。一方で「絵画」は、時の流れの宇宙現象をスパッと切り取った断面の世界で、天才画家がいかに生き生きと描こうが、紙焼写真のような静止した世界に違いない。


 この「動」と「静」の二項に人間の天性を部分けするのであれば、とりあえず職業別に大雑把に投げ込んでいけばいいことになる。例えば「動」には、音楽家はもちろん、スポーツ選手(F1レーサーや騎手なども含め)、バレリーナ、ダンサー、執刀医などが含まれるだろう。秒単位の時間の流れに対応しなければならない職業は、すべて「音楽的人間」の資質が求められるわけだ。


 「静」には、画家や彫刻家、工芸家が当てはまるが、最近の現代美術は行動的(アクション)だから、「動」的要素も求められるので、なんとも言えない。しかしここには、小説家などの文章家や詩人も含まれるに違いない。


 ワルターが「音楽的人間」と「画家的人間」の話を持ち出したのは、職業的ミスマッチについて言いたかったからだ。彼は「画家的人間」が音楽を専攻しても、偉大な音楽家にはなれませんよと言っている。音楽をやっても、生まれつきのセンスが違えば苦労をするばかりだよ、と主張しているのだ。だから、人間が大きく二つに分かれたとしても、その才能が厳密に必要とされる職業に就きさえしなければ、さほどの問題にはならない。リズムに乗って仕事をこなそうが、画家のように黙々と仕事をこなそうが、人それぞれの方法でこなせば何とか上手くいくのが大多数の仕事だ。


 問題になるのは、選ばれし人間だけが成功するような厳しい職業の場合だ。分かりやすく、フィギュアスケートを例にとって言おう。2010年のバンクーバ冬季五輪で金を獲ったキム・ヨナは、まさに「音楽的人間」の典型だった。彼女が「画家的人間」でないことは、その演技を見れば明らかだ。彼女は別に難しい技術を駆使して金を獲得したわけではない。それなのに優勝できたのは、彼女が生まれ持った「音楽的人間」であったからだ。


 フィギュアスケートはもちろん、クラシックバレエでもモダンダンスでも、生まれ持った質が「音楽的人間」か「画家的人間」かは、比較的簡単に判断できる。例えば「画家的人間」について言えば、画家でも彫刻家でも、最初はキャンバスへのデッサンなり台座の上に骨組みを造ることから仕事が始まり、絵の具や粘土を重ねながら作品が完成していく。つまり、完成品のあらゆる部分が、最初のデッサンなり骨組みと関わりを保ち、その拘束から免れない。当然、作品を解体してみると、最後にデッサンや骨組みが現われるだろう。


 僕は、キム・ヨナと争った日本人のスケーターは「画家的人間」だったと思った。なぜなら高度な演技の所々で、骨組みである背骨の存在がチラリと見えていたからだ。彼女は背骨を軸に回転していた。手足の先端までもが、背骨の回転に従っていた。一般的に、「体が硬い」とかそういった表現を使うが、そうではない。単に本質が「画家的人間」だったということだ。


 キム・ヨナの場合は、すべての組織が背骨から解放されていた。あらゆる部分がモナドと化し、各自が時間の流れを敏感に察知し、即応していた。キム・ヨナはしかし背骨のない軟体動物ではない。彼女は「音楽的人間」なだけだ。「音楽的人間」は、手の先から足の先まで、すべての細胞が背骨の支配を受けず、素早い音の流れに即応し、同調して、リズムの波の上に体を乗せ切り、自然体に、サーフィンのように流れていくことができるのだ。


 これは生まれ持った才能なので、ほかの選手がそれを上回ろうとすれば、高度な技術を磨いて、技術点を稼ぐ以外にはなくなる。キム・ヨナの演技は高い芸術点を獲得したが、「音楽的人間」が音楽に乗り切った場合、不自然な硬い部分が蒸発して、宇宙の重力に逆らうことなく、あらゆるものを芸術に昇華させることができるのだ。


 当然のことだが、基本「音楽的人間」が求められる世界に「画家的人間」が挑戦した場合、その欠点を克服するための努力は並大抵ではないだろう。しかし、「好きこそものの上手なれ」とういう諺があるとおり、努力しだいでは何とかなるのもこの世の良いところだ。才能に溺れて大成しなかった人間も数多い。ブルーノ・ワルターは自分の立場上、歌手に厳しい要求をしたことは推察できる。


 だから根本的な欠点があっても、人には必ず伸ばせる長所はあるものだ。フィギュアスケートだって、四回転や三回転半をバンバン飛べるぐらいに技術を磨けば、それだけでメダルはポケットに入ってくるだろう。多少芸術的でなくても高度な技術を失敗しなければ点は稼げるのだから。


 問題は、ブルーノ・ワルターが体育会のコーチではなく、再現芸術家であったということだ。スポーツと再現芸術は似て非なる世界だ。「技術」面に関しては基本なので双方とも似ているが、芸術は美的な表現をより重視する世界でもある。きっとフィギュアスケーターとプリマバレリーナの違いは、ワルターの持論を克服できるか、克服できないかの違いに現われてくるものかも知れない。バレリーナが片足立ちで何回回ろうが、そんなのは刺身の妻のようなものだ。大事なのは、その役どころをいかに美的に個性的に再現でき、彼女独自の世界を創出できるかだ。しかしワルターは断言する。それは生来的なものであると、生まれ持った音楽的センスの問題であると……。恐らく「画家的人間」は一生「音楽的人間」にチェンジすることができないのだ。


 僕は自称詩人だから、当然「画家的人間」だ。しかし、詩人の扱う言葉は歌詞にもなるのだから「音楽的人間」の要素も多々含まれている。言葉は硬くなく、ゼラチンのような半流動体である。だからある種の詩人たちの言葉は流れを持っている。エッセーだって、そういう資質を持った人の文章には流れのようなものを感じる。きっと彼らは「音楽的人間」なのだ。これは一種のセンスで、生来的なものだ。


 そのことが良く分かるのが、訳詩を読んだときだ。翻訳者の多くが学者で、学者の多くが「画家的人間」だ。だから、原語では流れを持った作品も、彼らはキャンバスに絵の具を置くようにシステマチックに翻訳し、結果として「目黒のさんま」のような和訳ができ上がる。しかし本人は「画家的人間」だからそれが分からず、誤訳のまったくない名訳だと自画自賛するわけだ。これも生来的なセンスで、恐らくその人の生涯で覚ることのない真実なのだ。残念ながら……。


(補):「音楽的人間」と「画家的人間」は水と油のようにスパッと分かれるものではない。80:20で混在している人間もいれば50:50で混在している人間もいる。例えば指揮者は「音楽的人間」であるべきだが、彼が一つの作品を演奏しようと思えば、最初に楽曲を分析(アナリーゼ)する仕事が待っていて、これには「画家的人間」の才も必要とされる。音楽学者のようなこともやらなければならないわけだ。
 この分析によって、作曲家の意図を読み取ることができるし、各パートの強弱やリズム、テンポを自分流に解釈しながら再統合し、自分がイメージする音楽を創出することが可能になる。
 この分析の後で、指揮者は画家が筆やペインティングナイフを使ってキャンバス上のいろんな色彩に手を加えるように、作曲家が描いた楽譜に鉛筆で独自表現のアイデアを書き込んでいく。この楽器のリズムはぼやかそうだとか、このリズムは鮮明に出そうとか、このメロディはこの楽器だけ特にはっきり出そうとか、云々……。 しかしこのドローイング作業の最中でも、主導するのは彼の脳内に鳴り続けている仮想現実的音楽というわけだ。






牛タン・エレジー


牛タンを食べたいというので
無理をして高級店に入った
にこやかに話をしていた女が
料理が来ると真剣な顔になり
黙々と鉄板に乗せ始めた


二、三切をそそくさ裏返し
小皿に乗せて俺に差し出し
目を大皿にして焼け加減を吟味し
ひょいと摘んで口に入れ始めた


そのうち女は「美味しい、美味しい」と呟き始めた
唄のように流れに乗っていた
エクスタシーの吐息だ
俺は唖然として箸に肉を挟んだまま
煙越しにじっと見つめた


女は没頭していた
快楽が体の内から膨らみ
マイヨル通りの街灯を通り越し
受精卵のようにボコボコ分裂
とうとう巨大なアメーバになった
喜びの唄をネチネチと
ひたすらに、がむしゃらに
肉を食らい、煙を吸い込む


ハッとして俺は幼い俺を想像した
得体の知れない重い蓋が
どこにもなかったあの頃を…
女はすっかり解放され
一切のしがらみを突き抜け
法悦の中を泳いでいる


俺はこのとき
この星の真実を知った
一粒一粒の生命体が
この喜びのために
蠢いていることを
そしてそれが
悠久の悲しみでもあることを…





竹藪


あの頃
裏には深い竹藪があった
台風が来ると
トタン屋根は小太鼓の連打となり
竹たちがパニックを来して殴り合い
ザアザアと音を立てた


竹藪は異界のとば口だ
病気になると
いつも同じ夢を見た
私を乗せた布団が
魔法の絨毯になって舞い上がり
お姫様の宮殿に向かうどころか
庭を竹藪に沿ってただ一周する
きっと耳鳴りだろう
虫の音がリンリンと
緩やかな波を繰り返し
魔王の囁きを物真似する


これは悪夢からの脅し
夜の竹藪を見たこともないのに
異様なほど鮮明なのは…
長々しい屏風絵のように
竹たちの硬直が静寂を醸し出す
密生した竹林の背後は
底なしの暗闇が広がる
布団がからかって
落とされるのではないかと恐怖した
尻に敷き、寝汗を吸わせた積年の恨みか…


私は虚弱な昆虫のように
死体を擬態して
指一本動かせない
なぜか目はキョロキョロと
闇の奥に妙な光を見つけた
消え入るように一点、橙色の灯
あんなところに人家はあるものか
人魂のように揺らいでいる
だがふらふら飛び回るわけではない


明くる朝、親が噂話をしていた
裏の竹藪に浮浪者が住み着いた
怖いわねえ…
毎晩のように訪れる悪夢が
夢ではなかったことに気がついた


いや、夢でなければいけない
私は病気の体を奮い立たせ
寝間着のままふらふら庭に出て
切り通しの崖を登り竹藪に入った
夢の記憶を思い出し
竹と格闘し、隙間を縫いながら
灯のあった方角に分け入った


竹を切った六畳ほどの空間に
継ぎ接ぎだらけの布を屋根代わりに
ボロボロの着物を着た老人が
笹を燃やして湯を沸かしていた
私を見るとニヤリと笑い
「坊ちゃん、お名前は?」と聞いた
先生に、名前を聞かれたら
ちゃんと答えなさいと言われていた


老人は炭団のような顔して
悪魔みたいに笑っていた
私は恐怖で強ばって
口から言葉が出なかった
捜しにきた祖母が
無言のまま私を抱いて
足早に連れ戻した


その三日後の夜
いつもの夢の最中
老人のたき火が燃え移り
竹藪の半分が灰になった
そこに老人の黒こげ死体もあった


人生で幾度か
無一文のときがあった
私はその度に
名前を言えなかった自分を悔いた
そして、今ふたたび…





奇譚童話「草原の光」
二十一


 三匹のティラノが攻撃態勢に入ろうとしたとたん、アインシュタインは右側のティラノに祖先帰り銃をぶっ放した。赤い光線が恐竜に当たり、恐竜は火山のように血肉を四方に飛ばしながらどんどん小さくなり、最後には大きな肉の塊になっちまった。その上から一匹のカメレオーネが顔を出したんだ。二頭のティラノは驚いた顔つきで、肉の塊の上のカメレオーネを見つめていたけど、リーダーは心を落ち着かせて恐る恐る聞いたんだな。
「お前はいったい誰だ?」
「あんたの子分ですぜ、ボス」
 二頭のティラノは大きな体をガタガタ震わせて、銃を構えるアインシュタインを見つめ、リーダーが捨て台詞を吐いたんだ。
「分かった、分かった。俺たちはあんたらを襲わないことにしたよ」
 二頭は踝を返して元来た道を引き返そうとしたけど、アインシュタインは呼び止めたのさ。
「待てよ。せっかく私が右側の子分を解体してやったのに、その肉を食べないで帰るんですか?」
「俺たちに共食いしろと?」
「腹減ったら共食いでも何でもするんでしょ?」
「分かった、分かった。食べましょ、食べましょ。その代わり、銃をぶっ放さないでね」


 肉の上のカメレオーネは驚いて肉から飛び降り、すたこら逃げちまった。二頭は仕方なしに仲間の肉に食らいついたんだ。すると、どんどん体が小さくなって、食べ終わったときには、二頭ともすっかりカメレオーネになっちまっていたのさ。二頭は互いに見詰め合って驚き、そのままどこかに逃げていった。
「愚かなゴキブリどもめ!」って言ってアインシュタインは笑ったけど、また二つの肉の山ができちまったんだ。アインシュタインはリーダーの肉に向かって、「元締め、出てきなよ」って声をかけると、大きな肉の山の上からアインシュタインが出てきて、長い舌を出したんだ。こっちのアインシュタインは「あれが本物のアインシュタインさ」ってみんなに説明した。本物はお尋ね者だから、強い恐竜の胃袋に隠れていたんだな。彼はすたこらアパトの頭まで上ってきて、分身のアインシュタインをハグした。すると分身は空気を抜いた風船みたいに萎んじまい、彼はそいつを肉の山に向かって投げ付けたんだ。アインシュタインは一つの星に一人いればいいんで、分身は用無しなんだな。でも、そっくりだからどれが本物でどれが分身だなんて、どうでもいいことなのさ。


 ウニベルはアインシュタインに抱きついて、「こいつはすごい!」って叫んだな。先生も抱きついて、「この祖先帰り銃を量産できるのかね?」って聞いたんだ。するとアインシュタインは首を横に振って、「君たちはこれ以上私を罪人にしたいのかね?」って言った。ウニベルも先生も、この銃さえあれば、恐竜たちを昔のカメレオーネに戻せると思ったんだ。だけど、カメレオーネに戻りたい恐竜がどれだけいるんだろう。
「俺たち草食恐竜はきっと賛成すると思うよ」ってアパト。「けれど、その条件は肉食恐竜がいないことさ」
 そりゃそうだ。カメレオーネになったら、小さい肉食恐竜にも食われちまうんだからさ。それが証拠に、レエリナサウラだとかヘテロドントサウルスとかエオラプトルだとか、小さな恐竜たちがもう臭いを嗅ぎ付けて、十匹ぐらい肉の山に首を突っ込んでんだ。そいつらは食い終わったところで、みんなカメレオーネになっちまった。とくに体長が三十センチしかないエオシノプリテクスなんか、祖先帰りする必要もなかったぐらいさ。で、みんな驚いて逃げちまった。


 すると先生はアパトの頭から降りて、肉の山からアインシュタインのアバターを引っ張り出してティラノの足跡の窪みに置き、アパトに「オシッコをかけてくれ」って言ったんだ。するとアパトは臭いオシッコをアバターに向かってかけたんだ。足跡が湯船になって、アバターはすぐに生き返ったけど、ションベン臭かったな。で、先生は「このアインシュタインは私たちの味方さ」って本物のアインシュタインに言ったんだ。本物は苦笑いして「君たちの好きに使ってくれ」って言うと、アパトの頭から手を広げてどこかに飛んでっちまった。やつは天才だから、この星の重力やら引力やらを計算して、飛ぶこともできるんだな。だから飛ぶ前に裸になって、祖先帰り銃も置いてきやがった。これでアバターも同じ物を量産できるようになったんだ。ウニベルもステラも、この星を昔の姿に戻したかったから、とっても喜んだのさ。


(続く)









響月光の小説と戯曲|響月 光(きょうげつ こう) 詩人。小熊秀雄の「真実を語るに技術はいらない」、「りっぱとは下手な詩を書くことだ」等の言葉に触発され、詩を書き始める。私的な内容を極力避け、表現や技巧、雰囲気等に囚われない思想のある無骨な詩を追求している。|note





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