詩人 響月光のブログ

詩人響月光の詩と小説を紹介します。

エッセー 「化石賞」VS「ノーベル賞」 &  詩


霊子Ⅱ


夕日が紅茶色に輝いていた
霊子は僕の腕に手を回し
浜の先の磯に誘った
ゴツゴツした岩に座って
軽い霊子を膝に乗せ、キスを求める
爽やかな冷気がクルクルと
僕の口先をからかい
海の方へと逃げていった


君はどうして唇が冷たいの?
あなたの唇が熱いのは
あなたの食べた命のおかげ
命の熱をもらっただけよ


わたしはそうして神様から
愛する人との命を授かった
でもそれは大きな癌だったの
赤ちゃんの代わりに育てることになった


泣いて泣いて
涙がなくなってしまったとき
行かなければならない場所のことが
頭に浮かんできたわ
するといま育てている悪い子は
あっちの世界でもそうなのかなって思った


だってこの子はだだっ子のように
わたしを必死に引っ張っるんだもの
この子はただ
あなたがほかの命から熱をもらうように
わたしの熱を借りて
そこに行こうとしているに違いない


そう思ったら悲しみが吹っ切れて
わたしはもう泣かなくなった
それよりも
この子がそんなに行きたいところを
見てみたい気もするようになったの
だってこの子は悪い子でも
血の通ったわたしの子なんだから


きっとこの子は
そこでしか生まれない子
だからわたしを一所懸命引っ張るの
わたしの命を奪う子は
いったいどんな顔してるんだろう


ある日あんまり強く引っ張るから
とうとうわたしもこと切れた
わたしは赤ちゃんに引かれて
お空に昇っていった


とても素敵なお花畑の中で
わたしは赤ちゃんを産んだんだ
下界の彼にそっくりな
とっても可愛い男の子
大勢の人と獣が寄ってきて
赤ちゃんを祝福してくれた
空には蝶も舞っていたわ


わたしはそのとき知ったのよ
宇宙にはいろいろあって
喜びと悲しみが混じったものもあれば
悲しみだけのものもある
わたしは子供に連れられて
喜びだけの宇宙にやってきた
そして時たま、生まれ故郷に戻ってくるの


でも君はなぜ
その彼に会いに行かないの?
彼には奥さんも子供もいたからよ
そして君は僕に目星を付けた
喜びだけの宇宙で結ばれるために


いいえあなたには奥さんがいるもの
ただあなたが好きなだけ
だってわたしは
いつまでも幸せでいたいから…



霊子Ⅲ


病院の窓から
木蓮の白い花が
風に揺れていた


陽の光がベッドに降り注ぎ
わたしは七色の粒々を飲み込んだ
すると痩せた体は暖かくなって
幼い頃のことを思い出したの


冬に風邪を引くと
お母さんが縁側に
布団を出してくれて
わたしは横になった
涼しい風が顔に当たったけど
布団はお日様を吸って
ポカポカになったわ


ああ、あのとき
あまりにも気持ちがよくて
まるで蚕が繭に抱かれるように
ずっといたい気持ちになった
きっとわたしは
病気になるのが楽しみだった


わたしは同じ気持ちを感じたわ
動かなければならない世界は棘だらけ
お日様はわたしを優しく包んでくれた
体が動かない可哀想な子たちも
お日様に包まれていれば
ずっと幸せなの
幸せ袋の大きさは人それぞれでも
中には同じ幸せが詰まっているわ


天国で生んだわたしの赤ちゃんは
お日様の揺りかごの中で
みんなに見守られながら
永久(とわ)の幸せを楽しんでいる
わたしはこの子と一緒に
いつまでもお日様と
遊んでいるの
いつまでも、いつまでも…





エッセー
「化石賞」VS「ノーベル賞」


 世界中でコロナの流行が続く中、日本の鎮静化だけが目立って、世界も注目している。原因はよく分かっていないが、その一つにほぼ100%に近いマスクの着用が功を奏していると考える専門家も多い。


 マスク嫌いの人間には辛いだろうが、実際マスク無しで町中を歩くには勇気がいる。マスクを忘れて家を飛び出したときには、衆人環視の中を歩くことが恥ずかしくなり、コンビニを探す羽目になる。その心理には「波風を立てない」という日本人の感情が潜んでいることは確かだ。


 日本社会の雰囲気は、戦争を体験した高齢者には思い出すところがあるかもしれない。国家総動員法が発令され、大政翼賛会が「鬼畜米英」をスローガンに掲げた時代に、少しでも平和主義的な言動をすれば近所の連中に密告され、たちまち憲兵が飛んでくる。しかし、その密告者は悪意があるわけではなく、保身のために密告するのだ。仲間と思われたら大変なことになってしまうからだ。


 日本人の大多数が「セロトニン トランスポーターS型」という恐怖を感じさせる遺伝子を持っていて、それに比べると欧米人(白人)は少ないという話だ(日本人の97%、ドイツ人は64%)。これは白人よりも臆病者が多いということ。「年功序列」だとか「終身雇用」というガッチリした社会システムも、臆病な働きアリたちが築き上げた安心・安全なライフ・スタイルだったに違いない。


 出る釘は打たれると言うが、「終身雇用」を守るには、能力の平準化が必要で、その反動として才能ある人たちが息苦しくなり、自由を求めて外国に逃げていく。保守政党である自民党が人気あるのも、臆病な人間の基本スタンスが「保守」だからに違いない。臆病者は冒険ができない。今までそこそこやってきたので、新しい政党で冒険することもないだろう、という考え。日本人は、石橋を叩くことが身に付いていて、確信がなければ新しい世界に踏み込むことはできないだろう。だから、ビジネスの世界でも、グローバル・スタンダードをなかなか受け入れられないのだ。


 「郷に入れば郷に従え」「長いものには巻かれろ」という諺は、「波風を立てない」という臆病者の気質を表している。権力者や目上の者の主張がおかしくても、異議を唱えずに従う社会風土は確かに存在する。古の時代から、社会や歴史を変えてきたのは武士たちで、平民は付き従うのが基本のスタンスだった。従順に対応すれば、不利益を被っても命は保証されるからだ。百姓一揆は飢餓など、よほどの事態に陥らなければ起きなかった(宗教がらみは別として)。


 ニーチェは、付和雷同する大衆を「畜群」と称して揶揄した。羊の群は、羊牧犬に追われながらも、従っていれば草を食べさせてもらえる。彼らは現時点での満腹や安楽、快適しか眼中になく、将来首を落とされて肉にされることなど考えない。だから羊は苦悩することもなく、苦悩から逃れるために逃亡することもない。


 人間の場合、将来に対する不安は十分なほど抱えている。しかし臆病者ゆえにそれを苦悩にまで高めることなく逃避してしまう。仮に苦悩しても、解決法を模索して積極的に対処するのではなく、老後に備えて貯金をするか、マルクスが「大衆の阿片」と称した宗教に救いを求めるかになってしまう。


 「阿片」はもちろん、共産主義者の言葉で、極貧国における宗教は、秩序を維持する意味で大きなメリットがあることは確かだ。共産主義自体、マルクスの思惑通りにはいかなかったので共同幻想に格落ちし、今のポジションは宗教と同列である。権力者たちの阿片というわけだ。


 ビジネス界では昔から「茹でガエルの法則」がよく取り上げられてきた。カエルはいきなり熱湯に入れると驚いて飛び出すが、常温の水に入れて水温を少しずつ上げていくと気付かず逃げ出さず、最後は死んでしまうという作り話だが、示唆に富んでいる。今の時代、未来を予測して先手先手に攻めなければ、企業は潰れてしまうだろう。


 これは「地球温暖化」にも言えることだ。現在、CO2等による温暖化で、地球全体の平均気温が過去100年間で0.3~0.6℃上昇しており、2100年には平均気温が約2℃上昇すると予測されている。しかし、肌で感じる温度上昇が微々たるものなので、世界中の人々が「茹でガエル」状態に陥っていることは否めない。


 人間もカエルも現状に甘んじていることは同じだ。しかし人間はカエルとは違う。カエルは楽園にいる状態で、ここにいれば安全だと思っており、不安に駆られることはない。


 アダムとイブは満ち足りた生活の中で、未来を考えずに過ごしていた。好奇心さえ起こさなければ、追放されることはなかったろう。18世紀末、英国の武装艦バウンティ号の船員は、地上の楽園タヒチの人々が明日のことを考えずに暮らしているのを見て、驚いた。食料が豊富で、将来のことなど考える必要がなく、今を楽しく生きることに専念していたからだ。


 しかし、今の世界はどこにも楽園はなく、裕福な人々すら将来に不安を抱えて生きている。世界中の人々に共通する不安は「我々は何処へ行くのか」というものだろう。当然のことだが、不安原因の筆頭は「核戦争」と「地球温暖化」だ。核戦争はまだ起こっていないけれど、地球温暖化は現実に進行している。


 当然のことだが、「地球温暖化」は人間がもたらした災害だ、ということは自分たちで解消する義務があるということ。しかも、その責任はCO2を大量に排出する先進国や工業国で、もちろん日本も含まれる。


 COP26ではCANインターナショナルが日本に「化石賞」を与えた。これは温暖化対策に消極的な国に与える不名誉な賞だが、当の日本政府も国民も茹でガエルの面に小便のような顔つきで、マスコミすら権威なき一団体が勝手に作り上げた賞だとして大々的に報じることはなかった。


 しかし僕はアンチな意味で「化石賞」はノーベル賞に匹敵するものだと考えている。日本人がノーベル賞を受賞すれば、国中があんなに騒ぐのに、なぜ化石賞は騒がれないのだろう。ノーベル賞が人類の発展に寄与する賞であるとすれば、化石賞は人類の滅亡をくい止める賞であるはずだ。ノーベル賞の対極はイグノーベル賞ではなく、化石賞だ。今の地球の状況を鑑みると、その意義は同等か、それ以上のものに違いない。


 当然日本が受賞するというのは、こと環境問題に関して、日本は政府も国民も同じレベルで意識が低いことを表している。その理由として、まずは経済優先という政府の方針もあるし、政府と経済界が癒着していることもあるだろうが、僕は臆病な国民が、温暖化に対する不安以上に、今の生活に対する不安の解消に汲々としているからだろうと思っている。


 温暖化対策はそれをもたらした先進国の義務であるのに、衆議院議員の選挙の争点も、国民の生活水準の向上に終始したのは、国民が今を豊かにすることを望んでいるからにほかならない。


 本当は、生活も豊かになり、温暖化も解消というのが理想だが、豊かな生活の基盤が電力やガスなどのインフラである限り、望むべくもない。核融合炉や超伝導電力貯蔵などの革新的な技術が実用化されれば話は別だが、今のところ化石燃料に頼らざるをえないのが現状だ。


 だからといって、このままの状態であり続けると、温暖化も後戻りのできない状況に陥ることは目に見えている。しかし良く考えれば、コロナ禍と温暖化には共通点があることに気づくだろう。それは両者とも「世界危機」であることだ。


 違いといえば、コロナは急激にやってきた危機であり、温暖化は徐々にやってくる危機であること。病気でたとえれば、急性か慢性かの違いだが、処置をしなければ最後は同じ結末になる。


 岸田政権は、オミクロン株に対して迅速な入国管理体制を取った(憲法違反であるという話は別として)。経済に固執した菅政権の轍を踏まなかったことは賞賛しよう。しかし、そんな岸田政権がなぜ化石賞を受賞したのか。それは、自分の政権のことばかり目を向けているからではないだろうか。


 短期的な政権が事なきを得ようと思えば、長期的な課題を後回しにしようと思うのは、温暖化問題に対する今までの政府の対応を見れば明らかだ。しかも、温暖化対策は、産業界ばかりか、国民に対しても負担を強いるものだから、それをやるにはよほどの勇気と説得力を持たないとできないだろう。しかし、医師が急性患者も慢性患者も分け隔てなく治療するのと同じに、政府も分け隔てなく対応しなければならないのだ。


 この点に関して、岸田政権は従来政権と変わらず、腰が重いと言わざるをえない。このままでは、環境対策で先を走るヨーロッパから相手にされなくなるのは必定だ。


 以前、フジテレビのプライムニュースで、評論家の橋下徹氏が「政治家の考えと世論が異なる場合、最終的には世論に従うべき」としたのに対し、新聞記者の橋本五郎氏は「政治家はたとえ世論と意見が異なっても、自分の考えを貫くべき」と主張した。僕は、五郎氏の意見を支持したい。


 橋下氏の意見は、民衆の考えが常に正しいという前提に立った典型的なポピュリズム思想で、世論が常に正しいわけではないことは、歴史を見れば分かることだろう。政治家に求められるのは、間違った世論を変える説得力と落選をもいとわない強い意志だ。その好例がチャーチルやドゴールであり、悪い例がヒトラーだが、三人とも自分の理想に大衆を導こうとする政治家魂を持っていた点では共通する。世論を気にするひ弱な魂を持つ者は、真の政治家ではない。特に温暖化問題では、「肉を切らせて骨を断つ」荒療治が必要になるからだ。


 当然ヨーロッパでも、政府の環境対策と産業界との確執が続いているし、規制に対する国民の不満もあるだろう。しかし彼らの政府は、脱炭素移行期の難しさを十分認識した上で、温暖化という地球の慢性疾患に対して積極的に取り組む姿勢があり、負担を強いられる国民に対しても、説明・説得を怠らない。


 その結果かどうなるかはまだ分からないが、少なくとも欧州の人々は日本人よりも環境問題に対する意識が高いことは事実だ。政府が国民を取り込んだのか国民が政府を動かしたのかは、鶏が先か卵が先かの話で、どうでもいいことだ。必要なのは、温暖化に対する危機意識を政府と国民が共有していることなのだ。日本の場合は、政府と国民が温暖化に対する「無関心」を共有していることが問題なのだ。


 COP26で、石炭火力発電について当初案の「廃止」から「削減」に表現が後退したことに対し、政府も電力業界も安堵し、松野官房長官は「国内政策と整合的だ」と宣った。これには石炭から水素を作り出す「ブルー水素」計画も考慮しているが、製造過程でCO2が出るのは必然で、地下に貯留するとなればコストもかかり、成功するかは疑問だ。


 政府の方針は、生命を育む地球という慢性疾患の患者に対する大いなる誤診に違いない。地球の最後を看取るのは神かもしれないが、地球を生き返らせる医者は、人間のほかにいないのだから。それとも、宇宙人が助けてくれるとでも思っているのだろうか……


「過去の因を知らんと欲せば、現在の果を見よ。未来の果を知らんと欲せば、現在の因を見よ」(釈迦)










響月光の小説と戯曲|響月 光(きょうげつ こう) 詩人。小熊秀雄の「真実を語るに技術はいらない」、「りっぱとは下手な詩を書くことだ」等の言葉に触発され、詩を書き始める。私的な内容を極力避け、表現や技巧、雰囲気等に囚われない思想のある無骨な詩を追求している。|note



















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