詩人 響月光のブログ

詩人響月光の詩と小説を紹介します。

エッセー「他人の命について」& 奇譚童話「草原の光」十九&詩


天空の花園


人生で一度だけ
この世のものとは思えないほどの
美しい花々を見たことがある
それはアルプスの高原に広がる
高山植物の群生だった
一センチにも満たない花たちがそよ風に揺れながら
年に一度の装いを競い合っていた
汚れのない空気が花びらに溶け込み
清らかな陽の光を透過して
どの花たちも高貴な輝きを放っていた
花粉を運ぶ虫たちのために
こんな演出をするはずはなかった
私は顔を上げて陽の光を浴びながら
きっと近くにイデアの世界があるのだろうと思った
神様がそこに咲く花たちを、夜のうちにそっと置いたのだ
巧みな画家も、写真家も、詩人たちだって
あの清楚な色ざしを形にすることはできないだろう
それは超自然の力が戯れに与えてくれた
光と空気と風による、つかの間のイコンに違いなかった
そうだ、ここは下界と天界の分水嶺
濁り色した現世に天のエキスが混じり合い
てらいのない光が穢れたちを浄化し、同化させたのだ
そのとき私は、いつか訪れるだろう恒久の幸せを予感した…






エッセー
他人の命について


 地球上のあらゆる生物が活動できるのは、「命」があるからだ。魚や動物だけを考えれば、「命」は玩具の電池のようなもので、それがなければ止まってしまう。乾電池なら取り替え、蓄電池なら充電すれば、再び動き出す。しかし命を失った動物に、いくら外部からエネルギーを注入しても、再び動き出すことはないだろう。


 科学者は命を、たんなる抽象概念だと一蹴するだろう。あるいは心臓を中心とした血液循環システムがそれに相当すると言うかも知れない。しかし多くの人は、「命」というコインの裏には「魂」というものが付いていると思っている。それには「心」だとか「精神」だとかの要素も当然含まれている。ソクラテスは魂を「真の私」と言ったそうだが、「魂」を「私」と言い換えれば、「命」は「私」を包み込む袋のようなものとも言えるだろう。だからそれが破れれば、「私」はどこかに飛んでいってしまうことになるのだ。しかし「命」が袋なら、きっとその中に入っている「私」のほうが大事な存在かも知れない。意識が無く、延命措置を施されている「私」は、家族にとっては「私」かも知れないが、私にとっては「私」でないからだ。


 科学者とは違い、多くの人が「命」を「私」だと捕らえている。だから他人が死んでも、人は「私の死」を考えてから、お気の毒と思うことになる。ならば、健康で自分の死を意識したことのない人間と、余命宣告された癌患者では、他人の死に対する印象も異なるに違いない。


 コロナ渦で、多くの人が命を失った。毎日のように死者数が表示されるが、それは単なる数字であって、その裏にある哀れな人々の壮絶なドラマは見えてこない。テレビの視聴者は、前の週より減った、増えたなどと一喜一憂し、収束の兆候を見出して安堵感を抱くぐらいなものだ。そうした人たちの多くは、純粋に「命」が「私」であると思っていて、「私」が命の危険に晒されなくなったことを単純に喜んでいる。


 しかし、その死者の中に自分の身内や友人が含まれていたら、この数字の捉え方は違ってくるだろう。この数字の中の一人の「命」が、「私」という魂に深く関わっていた「命」であったことで、その喪失感を味わうことになるのだ。そのとき初めて、人は「私」が入っていた命袋の片隅に、別の魂も入っていたことを知る。コロナで死んだ友と関係があれば、「私」は悲劇の当事者に加わり、そうして初めて「私」以外の「命」の喪失を意識することになるのだ。


 アリストテレスの「カタルシス」論は、悲劇の舞台で殺される英雄や不幸な妻子を観ることで、観客の心の中に溜まっていた不安や怒りや罪悪感などを吐き出して浄化する効果を述べているらしいが、それは舞台上の英雄たちが観客とは関係のない人たちだからできることだ。自分の父親が舞台で殺されたら、心がすっきりするはずもない。人が思う「命」は、恐らく私的な概念で、きわめて私的な「私」というハブを中心に、四方に広がるリムを伸ばして身近な関係者と繋がっているだけなのだ。一人ひとりがそんな車輪を転がしながら生命活動を営んでいるわけだ。そのリムと繋がらない近所のおばさんが死んでも、気の毒には思っても、悲しくなることはないだろう。


 だから大量虐殺などが起きても、それがおかしいと考える人たちだって被迫害者に関わりたくないと思い、せいぜいリムで繋がっていた友達だから匿ってやるぐらいなのだ。コロナ渦でも、社会の目を気にする日本人は、お利口さんにお上の言うことに従って行動するが、個人主義を大事にする外国では、命袋の中の「私」が大きくて、若者は他人の「命」よりも「私」を優先して、ああした行動に出るわけだ。コロナに罹るよりも、自由の制限が「私」そのものを壊しかねないと思うからだろうし、赤の他人の「命」よりも「私」の維持のほうが優先順位は高いと思うからだろう。やんちゃな若者なら自分の「命」よりも、「私」を優先させることだってあるのだ。


 こうしてみると、「命」というのは「私」を保護する袋で、それが破れれば「私」が消滅するだけに過ぎないということになる。私の「命」が無くなれば、「私」も無くなる。しかし、他人の「命」が無くなっても、「私」の「命」が無くなることはない。すると、他人の「命」はたちまち抽象的な概念となってしまい、社会や時代の状況で解釈が変わっていくことになる。歴史的に間々起こる「大虐殺」や「戦争」も、他人の「命」が私の「命」と異なることから生じる現象に違いない。私の「命」の中には「魂(私)」が鎮座しているが、他人の「命」の中には「魂」は無い。人々は他人の「命」という袋を見ているだけで、本当は存在する中の「魂」を透視することはできないからだ。


 自分と他人の「命」が同じだと思うには、他人の「命」の中にも「魂」があることを想像する必要がある。しかし想像することは知的な作業で、それは「教育」によってしか得ることはできないだろう。国どうしがいがみ合う状況の中で、「教育」方針が時の政府によってクルクル変わるとすれば、それは人類にとっての大いなる悲劇に違いない。憎むべき敵国人の命袋の中にも、我々と変わらない「魂」が宿っているのだから。








奇譚童話「草原の光」
十九 カメレオーネ星に到着


 で、隣の時空から元の時空に戻り、ワームホールから飛び出したとき、目の前にギラギラ輝くシリウスが見えたんだ。シリウスは太陽の倍ある大きな星だけど、カメレオーネ星は遠いから、地球と同じくらいの気候さ。海と陸の比率も同じ。空気だってある。
 大気圏に入るや、いきなり湖の上に着水した。バカンスは終わりだ。大きな湖で、周りは草原だった。遠くには山脈が見えたし、まるでエロニャンの国みたいな風景だった。でも違うのは、岸の草原で大きな恐竜たちが取っ組み合いの喧嘩をしていることだ。この恐竜たちが、カメレオーネの子孫だなんて、ウニベルもステラも考えたくなかったな。だから彼らは、未だにカメレオーネの姿をしている仲間たちを探したいと思ったんだ。でも、遠くの山に隠れて住んでいるらしい。そこまで空飛ぶ円盤で行けばいいんだけど、それは宇宙法に違反するってアインシュタインは言うんだ。宇宙法では現地の人たちを脅かすような行為は禁止されているからね。
「わしは一度法律に違反したから、罪の上乗りはしたくないんだ。空飛ぶ円盤の免許を取り上げられちまうからな」
 それで、仕方なしに遠くの山まで歩いて行くことにしたのさ。


 アインシュタインは空飛ぶ円盤を岸に着けて、サービスロボを残して全員が陸地に上がったんだ。円盤は自動的に沖に戻ったな。でもって身の安全を図るため、アインシュタインは自分が開発した「祖先帰り銃」を携帯したんだ。
「実は本当のわしはこの星のどこかに隠れていて、研究を続けているんだ。その一つの成果がこの祖先帰り銃さ」


 アインシュタインが言うには、カメレオーネがいろんな動物に変身できる能力を科学的に分析して、なんで大きな恐竜に変身できたかを突き止めたんだ。そしたら、カメレオーネはいろんなウイルスを持っていることに気が付いたのさ。その一つは、モーロクの子供たちが罹った眠り病ウイルス。これはウニベルとステラが地球に持ち込んだものだったんだ。二人は驚いて縮こまったけど、先生もケントもナオミもぜんぜん気にしてなかったな。もともとウイルスなんて宇宙から地球にいっぱいやってくるものなんだ。
 そしてもう一つは巨大な変身ウイルスだ。このウイルスは細菌以上の大きさがあって、カメレオーネが変身しようと思うと出てくるホルモンを受け取り、瞬間的にドッと増えちまうんだ。カメレオーネが真似する相手を見詰めていると、視神経の情報をキャッチして同じように増殖するから、ハリボテみたいにスカスカのそっくりさんになっちまうってわけさ。でもって、元に戻ろうって気がないと、そこに肉が入り込んで、元に戻れなくなっちまうってわけ。そうなる前に戻ろうと思わなけりゃいけないな。で、恐竜たちはカメレオーネに戻れなくなっちまった。


 それでアインシュタインはその巨大ウイルスだけをやっつけちまう光線中を開発したってわけ。そいつを恐竜に当てると、元のカメレオーネに戻っちまうんだ。獰猛な恐竜に出くわしても、これさえあれば食われることもないさ。
「アインシュタインおじさん。その銃を使えば、眠り病の子供たちを眠り病に罹る前の子供たちに戻すことはできるの?」ってヒカリは聞いたな。
「残念だが、それはできないな。だって、これは巨大ウイルスにしか効かないんだ。眠り病のウイルスを駆逐する能力はないんだよ」
 それを聞いて、みんなガッカリさ。


(つづく)










響月光の小説と戯曲|響月 光(きょうげつ こう) 詩人。小熊秀雄の「真実を語るに技術はいらない」、「りっぱとは下手な詩を書くことだ」等の言葉に触発され、詩を書き始める。私的な内容を極力避け、表現や技巧、雰囲気等に囚われない思想のある無骨な詩を追求している。






















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