詩人 響月光のブログ

詩人響月光の詩と小説を紹介します。

エッセー 「真鍋淑郎氏のノーベル賞受賞で思ったこと」ほか

エッセー
真鍋淑郎氏のノーベル賞受賞で思ったこと


 今年のノーベル物理学賞に真鍋淑郎さんが選ばれた。真鍋さんは地球温暖化研究の先駆的存在で、気象学という人間の生活に直結する分野の人が物理学賞を受賞すること自体が驚きだった。いままでの物理学賞は、宇宙物理学のように生活に直接関係しないような研究が多かったからだ。


 選考したスウェーデン王立科学アカデミーは、「地球温暖化」という人類の未来を左右する問題への各国の覚醒を促す意味で、意図的に選考したものと思われる。そこには人々が生活体験を通して考えることのできる「哲学」や「思想」と、「物理学」というほとんど遠い存在の「科学」との距離を近づける意図もあったのではないだろうか。いまの世界は、「温暖化メカニズム」という純粋な「科学的真理」を用いて人類に警告を発しなければ、そしてそれに各国が応えなければ、後戻りできない状況に陥ることは明白だからだ。真鍋さんの受賞が、温暖化対策への各国の真摯な取組を促すことに期待したい。


 ショーペンハウアーは著書の中に「文献学者ども」という言葉をよく出して、バカにしていた。文献学は「書かれたものに関する学問」で、重要な学問領域だから、文献学者が軽蔑されるいわれはないが、彼の言う「文献学者」は少々ニュアンスが違うようだ。


 彼は哲学者だから哲学の分野で限って言えば、非難の対象となった「文献学者」というのは、哲学史づくりに不可欠な文献学の専門家ではない。先人たちを研究するばかりで、過去の哲学を正しく批判したり、それらを超える新しい哲学や独自の哲学を創り出せない哲学者を指しているのだ。当時はヘーゲル哲学が超人気で、彼の哲学は長い間アカデミーから無視されてきたから、熱狂的ヘーゲリアンの大学教授や学生などへのあてつけかも知れない。しかし哲学者がすべて「文献学者」になってしまえば、そこで哲学の歴史は終わることも事実だ。当然のことだが、科学分野でも「文献学者」ではノーベル賞はもらえないし、「文献学者」ばかりになれば科学の歴史も終わってしまう。


 哲学に限らず新しい学問を生み出すためには、過去の学問を研究して、その不合理な部分を批判できなければ難しいだろう。つまり先人のおかしな所を見つけ出して、そこから自分なりに新たな学問を構築する必要がある。ニーチェだって、若い頃は優秀な文献学者だった。彼はその知識を吟味しながら、また違った哲学を展開したわけだが、所詮哲学は自然法則とは違い、新しい哲学を展開したところで、思想や文学のカテゴリーから抜け出すことはできなかった。それは人文科学の宿命でもある。


 昔は哲学と自然科学は隣接していたけれど、科学は自然法則に基づいて進化し、人間という特殊な動物の脳内に留まる哲学的観念とは乖離してしまった。哲学が置いてきぼりを食らったといっても過言ではない。それでも科学は人間の思いつきで進化するから、科学的思考も哲学的思考から派生したものであることは確かで、哲学の中の文学的な妄想部分が捨象されながら、純粋に科学的なものに発展していった。例えば、科学的真理の発見段階には数多くの「仮説」が存在し、真理が発見されると、一つを除いたすべてが科学者の妄想だったとして捨象される。しかし、どれか一つは真理となるわけだ。


 もっとも、科学だろうが哲学だろうが、思考そのものにメスを入れて、そのメカニズムを追求しようと思えば、科学的なアプローチ以外にはなくなってしまう。その代表的なものがブラックホール関連で昨年ノーベル物理学賞を受賞したロジャー・ペンローズの「量子脳理論」というオカルト的な仮説だろう。これは脳内の情報処理には量子力学が深く関わっているというものだ。


 この仮説で「臨死体験」を説明すると、脳で生まれる意識は宇宙世界で生まれる素粒子よりも小さい物質で、重力・空間・時間に囚われない性質を持つため、普通は脳に納まっているけど、心臓が止まると意識は脳から出て拡散する。しかし蘇生した場合は脳に戻り、蘇生しなかった場合は、その意識情報は宇宙にあり続けるか、別の生命体と結びついて生まれ変わる、というもの。これが本当なら、そこらに幽霊が飛んでいて、たまにはどこかの新生児に憑依する可能性も真実となる。ノーベル物理学賞の学者が、ギリシア哲学みたいなことを考えるのだから、やはり科学の根本には哲学が存在するのだ。


 もし哲学が人間の真理を突き止める学問なら、「仮説」を「哲学」と考えてもいいだろう。哲学の歴史は真理を求める「仮説」の歴史なのだし、未だに究極の真理は発見されないのだから、いろんな哲学者がいろんな仮説を展開しているだけの話だ。もっとも科学的真理だって、「大統一理論」みたいな新しい宇宙理論が完成し、それが真理として認められれば、それまでの真理(法則)が誤った仮説に格下げされる可能性もあるだろう。


 科学的真理について言えば、過去には天空が地球の周りを回っているという仮説が真理とされ、「地球が回っている」という正しい真理を主張したガリレオのような哀れな科学者も出てくるわけだ。マルクスは社会を動かす「真理」を発見したと思ったが、結局それは仮説に留まり、仮設は「主義」と名前を変えて共産主義国家が出来上がった。しかしガリレオも、彼を排斥した宗教哲学者も、当然マルクスだって「人間は真理を発見するために考える(努力する)動物である」というパスカル風の「真理」を認めていたに違いない。きっとその「考える」というやつは、それ自身が「思考する現存在(私)」という真理で、それは社会や人生や環境をよりよい方向に持っていくための方法論としての「真理」なのだ。


 現在では哲学と科学は乖離していても、人間が脳味噌で科学を考えるかぎり、あるいはAIでないかぎり、一人ひとりの脳内には観念のように哲学が生き続けている。科学者は自然法則漬けの毎日を送りながら、脳味噌の別の部分で宗教だとか人類愛だとか名声だとかの観念を弄んでいたりする。この観念は経験知が固定化された人生観のようなものだから、科学法則的な裏づけには乏しいし、時代的な背景や条件によって激変する危険性を秘めている。世界大戦という時代の主流観念によって、自然淘汰という真理を「優生保護」という思想に変え、人為的に行ったのがアウシュビッツだろうし、核分裂という真理を殺人目的に応用したのが原子爆弾だ。


 現代の哲学者は「文献学者」と揶揄されるのが嫌で色々難しい脚色を施し、独自性を出そうとしているが、ますます難解になるばかりで、人々の感性と乖離し続けている。これは現代文学や現代アート、現代音楽なども同じで、好事家のマスターベーションのようなものにも見えてくるが、ダイバーシティの観点からは自然な流れとも言える。多くの人間が保守的なぬるま湯に浸かりながら、癒しのメロディー繰り返し聞いている中で、ある種の尖がった人々は、哲学や芸術まで繰り返しで終わらせたくはないと思うに違いない。


 問題なのは核兵器や温暖化など、いまの世の中が人類にとって最も危機的な状況にあることだ。特に地球温暖化問題は、喫緊の課題になっている。そんなときにこそ、哲学者も科学者も芸術家も「仲良しクラブ」という殻から飛び出て、共に持てる叡智を発揮し、誰をも納得させることのできる世界の方向性を示す必要がある。そのベクトルは、繰り返しの円環から飛び出すものでなければならないし、円環に留まる多くの人々を引っぱり上げるパワーがなければならない。真鍋氏のノーベル賞受賞は、人類が周回軌道の重力から抜け出すための推進力の一つにはなるだろう。  


 しかし、さらなるパワーが必要だ。真鍋氏を嚆矢として、乖離した科学と哲学は再び接近させなければならないし、さらには科学と哲学を融合させた新たな科学思想も出てこなければならないと思っている。しかしこれは非常に難しい。かつてアインシュタインやサルトルという人気者がいたが、現在では社会を動かすことのできる哲学者や科学者など、想像することすら難しい。むしろ、国立競技場を埋め尽くすような人気アーティストのほうが適役だろう。


 当然のことだが、ショーペンハウアーが言う「文献学者」では、社会を動かすような思想は出てこないだろう。小惑星探査機「はやぶさ」のプロジェクトリーダー、川口淳一郎氏は、イノベーションを生むためには固定概念や思い込みに囚われない自由な発想が重要だとして、弟子たちに既存の論文を読まないように促したという。哲学・科学分野に限らず、やたら知識が豊富なだけで、独自の学問を打ち立てられなかった学者も多い。良い発想を得ても、他人の文献にあったなと思い出せば、その後の展開は萎んでしまう。


 そういった人たちは創造力が不足していたのかも知れないが、偉大な先達を踏み台にしようとしてその思想にのめり込んでしまい、ミイラ取りがミイラになってしまったものかもしれない。「先達はあらまほしきことなり」とは、一概に言えないのが難しいところだ。しかし、世界全体を動かすような新しい哲学なり思想なりがなければ地球温暖化も御しがたく、地球の未来はますます厳しくなることも事実だ。


 自民党総裁選のお祭り騒ぎを見ても分かるように、相も変わらず国民に媚を売るような政策を並び立て、「ジャパン・ファースト」の視点で国を動かしていく方針が見え透いている。しかし、これからの政治は五十年後の世界を見据えて、国民に大きな負担を求めるものでなければならないはずだ。残念ながら、いまの政治は目先の山積した問題に対応するのが手いっぱいといった感じだが、恒常的にゆとりがないのは当たり前で、それでも将来を見据えていかなければならないのだ。「泣いて馬しょくを斬る」という諺があるが、既得権などで政府と癒着している産業界にも厳しい姿勢を示さなければ、地球温暖化という怪物に立ち向かうことはできないだろう。そんなときに求められるのが、政治家や企業家を含めて、誰をも納得させるような「哲学」なのだと思う。当然のことだが「何々ファースト」というのは、個人単位の利益を国単位の規模に広めたもので、環境汚染や戦争の材料になるものでしかない。


 アメリカはトランプ政権の「アメリカ・ファースト」で後退したが、哲学の発祥地であるヨーロッパでは、「地球温暖化」をターゲットにした大人の議論が活発で、社会や産業の構造転換を含む新たな方向性も示されつつある。しかし相手は地球規模の問題なので、ヨーロッパだけが先行してもにっちもさっちも行かないことは確かだ。世界中の国々が一つにまとまって共通の哲学や思想を持ち、それぞれの先進技術を出し合いながら進めていかなければ、遅きに失することになってしまうだろう。このまま手をこまねいていれば、人類も自然淘汰という科学的法則に呑み込まれていくことは必然だ。一縷の望みは、幅広い意味において、人類だけが考え続けてきた「哲学」なのだと思っている。それがいま求められるとすれば、社会や人生や環境をよりよい方向に持っていくための方法を「真理」にまで高める、難しい作業に違いない。
   






従軍画家

(戦争レクイエム)


死体の折り重なる丘を彷徨いながら
手拭いで鼻を塞ぎ
「玉砕」のイメージを浮べつつ
許された時間の中で
一体一体、選び出さなければならない


丘のこちら側にはわが兵
あちら側には敵兵が固まって死んでいた
しかしキャンバス上では
両者が入り乱れなければならなかったのだ


見えない銃弾を考えては絵にならない
白兵戦で斬り合わなければ迫力に欠ける
わが兵は刀や銃剣で敵を刺さなければならない
死にゆく敵兵は目を閉じ
諦念の安らぎを得なければならない
わが兵は目を見開き、悔しさを滲ませ
後に続く兵たちに、怨念を伝えなければならない


しかし目の前には残念なことに
瓦礫と化した腐乱死体が転がるばかりだ
敵も味方も古びた雑巾のようにボロボロとなり
まるで、敵軍兵舎の横のゴミ捨て場だ
画家は「想像する以外にないな…」と苦笑いし
とりあえず怨念に溢れる眼だけでも探そうと思った


どいつも腐った魚の目のように淀んでいて輝きがなかった
あと二日ばかり早く来ればまだ増しだったと後悔した
画家は意欲をなくし、とぼとぼとボートに戻ることにしたのだ


しかし後ろから誰かに見詰められているような気がして振り返ると
腐乱死体の股間から飛び出した白い顔を確認した
遠目にも生きているように見えたのだから、しばらくは生きていたのだろう
画家はしめたと思い、踝を返し早足で戻ったのだ


それは美しい面立ちの少年兵だった
見開いた瞳は輝いていて、頬はかすかに微笑んでいた
蝿が三匹、鼻から出てきて飛び去った
少年は天国に旅立つ仏の顔付きで
求めていた怨念は微塵も感じられなかった
画家はチェッと舌打ちして、その場を立ち去ろうとした


するとその少年が話しかけてきたような気がしたのだ
「おじさん、久しぶり…」
画家は振り返って少年の顔をまじまじと見詰めた
仏の顔が、隣家の悪餓鬼に変わっていた


「嗚呼、こんなところで死にやがって……」
画家は号泣しながら画帳を開き
震える指で素描を始めた






奇譚童話「草原の光」
十六 チッチョの家族登場


 空飛ぶ円盤は直径二メートルぐらいの小さなやつなんだけど、中に入るとすごく広いんだ。入ったとたんに体が広さを計算して、自動的に十分の一になっちゃうから、快適に運転することができるのさ。干物のアインシュタインは体の中身が乾燥しちゃってるから、戻すには水分が必要なんだな。で、ジャクソンはしばらくアインシュタインのまま、スイッチを自動操縦にして、後ろの倉庫からバスタブを出してきたんだ。中に水は入ってなかったけど、小さな干物がたくさん入ってたんだな。アインシュタインが入れてくれって頼むから、ジャクソンはアインシュタインを入れて、バスタブの横にあったスイッチを押したんだ。


 するとバスタブにどんどん水が溜まっていくんだ。円盤が外の空気に含まれている水をどんどん吸収して溜めていくんだ。水が溜まると、アインシュタインを含めて中の干物たちがどんどん水を吸収して、どんどん大きくなっていくんだ。ものの二分で水が底をつくとまたどんどん水が溜まっていく。出来上がった連中はため息をつきながらバスタブから出て、アインシュタインは最後まで出来上がらなかったけど、ようやく吸い切って、バスタブから出たのさ。ジャクソンとアインシュタインは並んでみたけど、アインシュタインのほうが水ぶくれしてたな。でも、ジャクソンは安心して、もとのカメレオーネに戻ったのさ。


 でもって、ほかの連中はチッチョと同じシリウス星人で、チッチョの両親と、弟と妹、それに奥さんだったんだ。アインシュタインもカメレオーネ一族も、近くの星の出だけど、シリウス星人の身長は一メートル前後なのに、アインシュタインは一メートル七五センチ、ジャクソンは五十センチなんだ。
「ハイ! 私はこの円盤の持ち主、チッチョの母親の分身よ」
「ハイ! 僕はチッチョの知り合いの別の星の住人であるアインシュタインの分身」
「ハイ! 僕はカメレオーネ星人の地球移民の子孫で本物のジャクソンさ」
 ってなぐあいに、みんな自己紹介して笑いながら握手したんだ。


 なんでもシリウス星人は、長旅に出るときには、家族のそっくりさんを干物にして携帯するそうなんだ。昔はそっくりロボットだったけど、金属ロボットは荷物になるので技術改良して、乾燥すれば小さくなる干物ロボットに進化させたってわけさ。でも、時空を越えたダークマター通信を利用して、シリウスの惑星にいる本物の母さんとリアルタイムで話すことができるんだ。で、ようやくチッチョはシリウスの家族と再会できるのかといったら、そうでもないらしい。
「だってチッチョが円盤に乗ろうとしたら、あんたの祖先が円盤を乗っ取って、こんなちっぽけな星にやってきちまったんだからさ」って母さんはジャクソンに言った。ウニベルとステラのことを言ってんだな。
「でも安心して。チッチョは別の円盤に私たちの干物を乗せて地球にやって来たの」ってチッチョの奥さん。
「だから、この小さな星に、チッチョはおんなじ家族を二つ持つことになったのさ」ってチッチョの弟。
「でも、それがうざいなら、あたしたちは干物に戻ってもいいのよ」ってチッチョの妹。


「で、チッチョは僕のことをなんて言ってる?」
 アインシュタインが母さんに聞くと、母さんはニコリと笑って、「あなたは宇宙のお尋ね者だって言ってるわ」って答えたんだ。
「でも僕は分身で、本物じゃないさ」
「でもあなたと本物は通信している。その線を辿れば発信元が分かるじゃない?」
「じゃあ僕は、本物との通信を断つことにする」
「するとあなたは誰になるの?」
「白いキャンバスになるのさ」


 アインシュタインは腕を組み、無言になってそばの椅子に座った。するとアインシュタインの体から水分がバスタブに戻って、また干物になっちまった。それで円盤が慌てて喋り出した。
「操縦者を見出しません。自動運転を続けますか?」
「チッチョが宇宙人秘密基地へ着陸するように言ってるわ」って母さんが円盤に伝えた。
「分かりました」ってなわけで、空飛ぶ円盤は幅広い滝の裏の洞窟から秘密の基地に入っていった。


(つづく)

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