詩人 響月光のブログ

詩人響月光の詩と小説を紹介します。

奇譚童話「草原の光」七 & 詩 & エッセー


ゴキブリとの対話


だいぶ昔、寂れた喫茶店に入ったとき
閑散とした店内のいたる所で
小形のゴキブリたちが我がもの顔で走り回っていた
カウンターの女主人は、意にも介さぬ顔つきで
乾いた布で執拗にカップを磨いている
どうやら奴らが目に入らないか
駆除が面倒なのか、金がかかるのか
ゴキブリも山の賑わいとでも思っているのか…


私は不愉快になって、すぐにでも店を出ようとしたが
それを気遣うように彼らの一匹が挨拶に来た
そいつは大胆にも私のカップの縁に這い上がり
立ち止まって私をじっと見つめ始めた
その時、私に問いかけているように思えたのだ
旦那、おいらはこの先どうすればいいんでしょうね
きっとそいつには三択しかなかった
一つは右に落ちて、冷めたコーヒーの中で溺れ死ぬか
一つは左に落ちて、皿の上で足を挫くか
一つは綱渡りのように縁を伝って、ハンドルから皿に降りるか


私は何も答えずに、ゴキブリの頭を試そうと思った
しかし私の思いつかない第四の方法があったようで
自慢げに羽を広げて飛び立とうと思った瞬間
足を滑らせて泥池の中にポチャンと落ち、空しく泳ぎ回った
ゴキブリ風情が身の程も知らず、虚勢を張るか…


あの時自らの虚勢がことごとく崩れ
絶望の淵に立っていて
未来へ向けたハンドルがないことを感じていた
ゴキが死んだかどうかは知らないが、落ちるのだけは止めようと思った
結局覚束ない足取りで、崖っぷちを歩き続けることにしたのだ
風に吹かれながら、何度も落ちそうになりながら必死を装い
未だ見つからない何かしらのハンドルを見つけるために…





エッセー
ペンギンと日本人


 ペンギンは隣の巣がトウゾクカモメに襲われても、慌てることなくただ傍観しているという話だ。おそらく次はわが身という感覚が薄いのだろう。トウゾクカモメは集団で襲わないから、安心しているのかもしれない。海の中ではシャチやアザラシなどの天敵がいるけれど、陸では時たまカモメが襲うぐらいなので、人間すら警戒することもない。そうした安全な環境が、長い年月をかけて陸の上のペンギンをのんびり屋さんに育て上げたというわけだ。


 古代ギリシアでは、逆に隣の都市国家がいつ攻めてくるかも分からない状況で、例えばアテナイに楯突いたデロス島の成人男子は全員が処刑されるなど、負けた後には虐殺が付いて回ったから、人々はいつも怯えていた。そうした不安を解消する手段として、ギリシア悲劇なるものが人気を集めたのは、舞台上の悲劇を観て、自分の心に鬱積していた恐れや不安が涙とともに一気に吐き出され、自分はまだこんな目に遭ってはいないと安心し、観劇の後にはすっきりした気分になれたからだ。


 日本という国は、実は古代ギリシアと同じような状況に置かれているのだと僕は思っている。しかし、いまの日本人はペンギンと同じく、平和ボケしている。世の中は平和だと基本的に思っているし、戦争への恐れも希薄だから、ギリシア悲劇を観る必要もない。


しかし実際には、日本をデロス島に例えれば中国はアテナイだし、北朝鮮はスパルタだ。中国も朝鮮も、日本に侵略された過去を忘れていない。戦時中、日本は力にものを言わせ、それらの国に対してアテナイと同じ振る舞いをした。侵略された国々の人の心の中には、今でも当時の屈辱感が残っているに違いないのだ。中国も北朝鮮も一党独裁国家だから、そうした国民感情を利用すれば、将来日本が攻め込まれる可能性は十分あるだろう。独裁者が決断するかしないかの問題で、核のボタンも彼らが握っている。


 しかし日本人は慌てない。それも状況を的確に判断し、精神を落ち着かせているのではなく、ペンギンのように軽い乗りで慌てないのだ。ペンギンには想像力が欠けている。自分の周りの環境に浸かり切って生きている。自分の巣がトウゾクカモメに襲われたときだけ、急に慌てて騒ぎ立てるのだ。そして、周りのペンギンたちは、いつもの一風景として、他人の不幸を白々しく傍観している。


 日本人はペンギンに似ていると僕が主張するのは、コロナ渦におけるインドの惨状を、白々と見ていた人が多かったことによる。次はわが身という実感が、政府にも社会にもさほど感じられなかったからだ。例えば若者の行動を見ても分かるだろう。彼らに恐れがないのは、今まで生ぬるい環境で育ってきた結果に違いない。彼らはペンギンのように生きてきた。戦争も食糧難も体験していない。空襲警報を知らない若者が、「緊急事態宣言」という言葉の意味を理解するのは難しいだろう。


韓国の地下鉄火災では、電車の中が煙っているのに逃げなかった若者が大勢いた。それはやはり緊急事態を体験したことがないからだ。東日本大震災のとき、僕は税務署で確定申告をしていたが、大きな揺れの中で多くの若者がパソコンの入力を続けていたのに驚かされた。度胸があるというよりか、天井が落ちるような地震を体験したことがないからだ。


 僕が子供の頃、テレビでは戦争の惨状を記録したフィルムを良く流していた。街角に山高く詰まれた腐乱死体などもはばからず放映した。しかし現在では、そんな残酷な映像をめったに目にすることはない。きっと、そうした映像にはクレームが来るのだろう。釈迦の親は、幼少の彼に世の中の悪いものを見せまいとしたが、多くの親御さんがそうした気持ちなのかも知れない。しかし釈迦が立派な哲学者になれたのは、知力はもちろん卓越した想像力があったからで、良いものばかりを見たからではない。


 普通の若者は、釈迦ほどの想像力は持たない。とくにアニメや映画ばかりを見ていると、頭の中で状況をイメージする必要がなくなってしまうだろう。想像力が育たなければ、コロナに感染した同世代の患者の苦しみを想像することは難しくなるに違いない。おまけに肺炎に罹ったことがないのだから、その苦しみなんぞ分かるはずもない。


 となれば、「緊急事態宣言」の意味や「コロナの恐ろしさ」を知ってもらうには、やはりネットなどで、実際に起きている日本の惨状をビジュアル紹介する以外ないだろう。かつて古代ギリシア人がギリシア悲劇を観たように、かつて僕が戦争の記録フィルムを見たように、単に言葉ではなく、目に焼きつくような悲劇的状況をどんどん見せるべきなのだ。それがアニメ世代への最善のプロパガンダ手法だ。


コロナの恐ろしさを想像できないなら、実際に起こっている病院内の惨状をもっと公開すべきだ。政府もグーグルやIT広告会社、プロバイダーなどと連携して、若者にもっともっと現状を知ってもらう方策を考えなければならないと、僕は思っている。かつて多くの若者を戦場に駆り立てた政府だもの、若者の危機意識を駆り立てる方法など、いくらでも思い付くに違いない。日本はコロナウイルスとの戦争状態に突入したのだから……。





奇譚童話「草原の光」
七 ヒカリの誕生


 朝になって陽が出ると、赤ん坊の顔がはっきりと見えるようになって、ケントもナオミも先生もビックリしちまった。それはどう見てもモーロクの子供だった。しかも、ケントに似ているしナオミにも似てたんだ。


「どうしてアマラが君たちの子供を産むんだ?」って、先生は目を丸くして二人に聞いたけど、二人とも分からなかったし、産んだ本人のアマラだって分かるはずはなかったさ。けど先生はいろんな生殖の方法があることを知ってたんで、まだ解明されてない仕組みがあるってにらんだんだな。例えばモーロクの男も花粉のようなもんを空中にばら撒いてて、女も空飛ぶ卵を持ってて、蝶々みたいに互いに空中で出会ってひょんなことからアマラの蛇が飲み込んじまったってことも考えとしては成り立つ、って先生は思ったんだ。草原はなんでもありの世界だからな。


 どっちにしても、先生もケントもナオミもモーロクの子供ができたことにとっても喜んだんよ。しかし純粋なモーロクだったら、眠り病に強い子供じゃないから、先生の目論みは失敗したってことだな。で、先生はほかの新婚夫婦はどうなったかって聞いて回ったけど、早すぎねえ?って笑われちまったのさ。


 でもって、もっと驚きだったのは、この赤ん坊が明くる日にはオッパイに飽きちまって、はいはいしながら周りの草を食べ始めたこと。モーロクなのに土よりも草が好きだなんて、きっとエロニャンの血も混ざってるってことなんだ。なんだか知らないけど、いろんな花粉が混ざり合っちゃうってことなんだ。空気汚染の一種だな。それなら眠り病に強い子供かも知れないって、先生も期待を持てたんだな。
 でも、ナオミは悲しかったな。モーロクの子供と違って、ナオミが抱き上げようって思っても、嫌がって草の中をはいはいして、どこかへ行こうとするんだ。深い草の中で見失わないように、ナオミもケントもハラハラしながら追いかける。そんな二人を見て、「ほっときゃいいのに」ってアマラもカマロも笑ってる。で、この子の名前を、先生が付けることになって、先生は「ヒカリ」って付けたんよ。先生はこの新天地に生まれた最初のモーロクに太陽のヒカリを当てたんだな。


(つづく)






響月 光のファンタジー小説発売中
「マリリンピッグ」(幻冬舎)
定価(本体一一○○円+税)
電子書籍も発売中 


#小説
#詩
#哲学
#ファンタジー
#物語
#文学
#思想
#エッセー
#随筆
#文芸評論
#戯曲
#エッセイ
#現代詩
#童話

×

非ログインユーザーとして返信する